2013年5月26日日曜日

追い打ちをかける教授


2009年12月中旬から下旬
Aは浪江に戻ったがいまだ自殺願望は衰えずに戻った晩にまたワインとウィスキーを飲み前と同じ方法で低体温症にもっていこうとしたが失敗し、その翌日朝を迎えた。
まだ自殺願望は衰えずに東京に帰る日に電車で逆方向の仙台へ行き乗り換えて山形方向の宮城と山形の県境の近くの無人駅で降りた。雪が降り積もった日だった。その駅から歩いて川のほとりにある小屋のようなところで薄着になって凍死しようとした。しかし、いつまでたっても死にきれないために駅に戻り浪江の手前の原町駅まで戻った。そこまで父に迎えに来てもらい浪江に帰った。
その数日後、東京へ帰ったが、その晩にまたコンビニに行き、ウィスキーを買い今度こそ低体温症になろうとしたが失敗した。友人O君が心配して来てくれたがちょうど泥酔してわめいていた時だった。その時の記憶はうっすら残っている。翌朝、目が覚めるとO君も隣で寝ていた。
その数日後に研究室のK先輩が心配して部屋に来てくれた。死にたいと正直に言った。
最初は外に出れなかったため夕食を買ってきてくれた。次に何回か来てくれた日は一緒に外へ食事をとりに行った。それを何回か繰り返し、SMと会って話すように説得された。


2009年12月24日または25日
SMとK先輩と駒込で話すことになった。AはあまりSMと会いたくなかったが、先輩Kさんの勧めで昼過ぎに駒込の喫茶店で会うことにした。SMとAが会った瞬間、SMは持ってきたカレンダーでAを軽くどついた。普通の状態だったら全くたいしたことではないが、その時の自分にとってはとても苦痛なことだった。
Aは精神状態や問題などをその時の精神状態でできる限り話そうと紙に今までのいきさつを書いてもってきたが、SMは話を聞こうとしなかったばかりか、大きな×印をつけて、ゆっくり気長にという言葉を書いた。

そこでSMはAに、
「過去は忘れなさい。反省はしていけない。ゆっくり構えていればいい」
「うつ病は原因が分からない。ずっと医者と話していてある時、原因が分かってくるもので、今は原因探しはやめて、昔のことは考えないで、ゆっくりのんきに過ごせばいい。」
「うつ病の時は正しい判断はできない。悪いようにはしないから。就職に関しては大船に乗ったような気持ちで私に任せなさい。ま、Aを雇う会社はあるかどうか分からないが。研究に関してはKM先輩に従ってやりなさい。」
「学生の本分は研究だ。」
とアドバイス・指導のようなことを言っていたが、同時にAを侮辱しているようにも感じた。
また、SM自身もうつ病になったと研究室はじめ多くの場で言っていて、その症状や状況がどんなものか個人差があれどある程度察することはできるはずなのに、Aに対してそれをくんだような対応は皆無に等しいと言ってもいいのではないか。逆にそれでも罵倒することを言ったりしていた。後で心配しています、と言われても後の祭りである。


また、研究室で坂本先生の写真大会があり、TAくんが撮った、Aがオランダでシンガポール人の留学生Tと一緒にいる写真を出したそうで、それについても、研究室で話題になったみたいなことを言っていた。
また、
「好きな女の子のタイプでも考えていた方がいい。」
というようなことを言った。
少しでも明るい話題を話した方がいいと思っていたのかもしれないが、個人的なことにつっこんでくるそののりはどうなのかと正直不快だった。

また、
「うつ病は心の風、持病をもつようなものだ」
と言っていたが、風邪でこんなにひどくはならないと思った。あれは医療業界が鬱病は誰でもなりうる病気だから気軽に早めに医者にかかってほしいという宣伝文句で、あまりにも簡単にたとえ過ぎていると思った。

また、就職に関しては、
「親を選べないように上司は選べない。仕事は一緒にしている人で大きく変わる。嫌な奴と仕事しても楽しくないだろう。」
「こんなことで悩むAには海外では仕事、生活ができない」
「学生に社会を見る力はない。」
というようなことも言った。


その後、研究室に久々に行くことになった。SMとK先輩が今、行った方がいいとなかば強引に連れて行った。
タクシーで向かう時に、SMは、
「ホームレスになるよりはましだろう」
というようなことを言った記憶がある。
自分はこのまま行くとホームレスになるのではないかと内心恐怖に思っていたので、こう言われてますます怖くなった。


研究室の周りの対応はなんだか冷たく感じられ、ますます疎外されているような感じだった。

その晩に研究室に残っていたF准教授や秘書の方、学生などを集めて食事に行った。そこでSMはAの精神状態を隠してくれたが、
「昔同じ研究室にいたI教授も学生のころは何を考えているのか、何をやっているか分からないような学生だったが、就職して今では立派な研究者だ」
という内容のことを言っていた。Aを励ますために言ったのだろうが、どんなにできないやつでも、なんとかなるもんだ、という感じで言っているように感じ、自分はやっぱりできない者、怠け者なのだと感じた。

そして、SMF先生がいる場で、
Aの食事代はF先生が持ってくれるそうだ」
という内容の言葉を何回か言った。しかしF先生は聞いていなかったようで、えっと困惑した感じだった。
結局SMAの食事代を支払うことになったが、恩着せがましい感じだった。ポイントも他の人の全員分をちゃっかりいれていた。
SMは翌週に研究の打ち合わせのために研究室に来るようにAに言ったが、もはや行ける気力は残っておらず、Aはアパートで一人過ごすことになった。行けたら研究室に行きたい、行った方がいいということは分かっていたが、精神的にできなかった。


SMやKF先生、先輩のKさんは年末から何回かメールをくれた。
こんなにダメになった自分にあたたかい言葉をかけてくれる、見守ってくれる人がいてありがたいと思うと同時に、どうすることもできない自分がどうしても許せなかった。

初めての自殺行為


外見は生まれつきのこともあり比較的にこにこしているのか童顔だからか、あまり周りの人にはひどい状況には思えなかったのかもしれない。
しかし、状態は悪化の一途で、改善することはもはやできなかった。


2009年、恐怖に打ちのめされている間、手足は震え、ひざもガクガクし、目の下は痙攣し、吐き気がし、めまいがし、頭が針で刺されているようにズキンズキンと異常に痛くなり、焦燥感がいつもつきまとい、自分が周りが現実が信じられなくなり、外に出るのも怖くなり、わらにもすがるように、カウンセリングに電話し、行き、薬を飲み、外を走り、研究資料をつくり、電車に乗り、神社に行き、布団に入り、眠れない夜を毎晩過ごしていた。

対人恐怖症のように、人が近くにいること、接する事、話す事などが怖くなった。
記憶力や集中力、判断力、決断力、思考力、行動力、もろもろの能力が極端に出せなくなった。怖くて何もできないようになった。

心神耗弱に陥り、普段なら普通にできていることができなくなり、表情も暗くなり、優柔不断、暗い、話を聞いていない、気や考えがころころ変わる、覇気がない、あいそがない、空気が読めない、役に立たない、無能、バカ者・・・と散々大勢の他人から非難された、されているように錯覚するようになった。それによって更に精神的に追い込まれた。

だんだんと自暴自棄になっていった。


2009年12月あたま
この時期にはかなり追いつめられ、就職活動はおろか、アルバイトも休みがちになり、食事をとったり外に出る気力もなくなり、まだ体調がましなときには出前をとったりしていた。

12月10日に「SHIN LIFE」というサイトの岡崎さんという人に自分の精神状態や悩み、自殺願望などをメールで相談した。翌11日に返信が返ってきた。しかし、返信する力がなく、それ以降、自殺願望が極限に達した。


FNは就職活動も研究も何も進んでいないことからますます精神を病み、12月上旬に東京のアパートでアルコール度数の高いウィスキーを一気に飲み泥酔させ、外気に触れさせ体温を低下させ、意識をなくし、そのまま低体温症にもっていいき死を選ぼうと自殺未遂をおかす。しかし、酒を全て飲んだ後に吐いてしまったことから自殺はできずにそのまま泥酔し翌朝を迎えた。この日、酒を飲んでいる最中に家族だけに、これまでお世話になりました、さようなら、という内容のメールを送った。
翌朝、目が覚め、我に返りアルバイトへ行った。夜に母が東京へ駆けつけ、その晩は東京に泊まり、次の日に実家の浪江へAを連れ戻した。
友人や研究室の人たち、留学生の友人などから心配のメールや電話が来たが返答できなかったりできたとしても何も言えないまま浪江に帰って行った。とてもまともに返答できる精神状態ではなかった。


いつ頃からか、自分は武士の子孫なのに武士の精神がない、と何回も何回も自分を責めていた。もっと子供の頃から心身を鍛えていれば良かったと後悔した。切腹できるのならばここで早くやりたいと思うようになった。
母の父方は武士だったと話をいろいろ昔から聞いていたが、後で知ったところで、父の父方(藤井家。家紋は下がり藤。祖父と祖母が昔離婚して祖母の西山姓を名乗る事になった)も武士で、戦国時代に福島南部をおさめていた一族に仕える家老であり、他国が攻めて来た折りにまだ幼かった城主の首を差し出せば攻撃しないと交渉し、先祖は幼き主君の命を助けるために身代わりとなって切腹しその首を相手国城主に届けさせ、ことなきを得、後年、その城主がお礼に寺をつくったという歴史があったことを知った。

就活、研究がなかなか進まない


2009年11月
AとK先輩はヨーロッパへの研究調査旅行をASに勧められて計画を立てていた。アイスランドや北欧、ドイツなどを回る予定であった。GCOEなので大学にも通していた。しかし、10月頃からのASについての新聞記事などが公になるにつれ、AはASについて研究を進めていくこと自体が危険だと思うようになった。大学側もASについて疑うようになり、AとK先輩はこの調査旅行を続行するべきかどうかSMに相談し助言を仰いだ。こちら側から相談しに行ってやっとその調査旅行はやめた方がいいというようなことを言ったが、その他にはASの研究をしていた学生たちに注意をすることはなかった。
バルコニーで煙草を吸い、その他は忙しそうで、私に迷惑をかけないでくれという雰囲気だった。
AはSMが高圧的で自分を避けていると以前から感じていたということもあり、また、SMは以前からうつ病を患わっているのを知っていたので負担をかけないようにと極力直接的にASに関して相談することは避けた。本当はASのことを相談したかったし、事実関係を知りたかった。しかしできなかったし、SMは本来するべきなのにしなかった。
SMはこちらが聞かなければ何も対応をしようとはしなかった。
AとHKは大学側に事情を説明し研究調査旅行を停止した。


この頃からかもっと以前からかAはその時の現実を信じることができずに、これは悪夢でいつかきっともとの時間に目が覚める。過去に帰れると思い込むようになった。ネットのどこかにも書き込みをした。

大学のキャリアサポート室で就職相談を確か10月から受けていたが、志望動機(日建設計の留学生募集枠)の添削を頼んで話していたが、その担当者に精神的に大丈夫かということを聞かれ、軽く症状やいきさつを話したところ、運動して精神をあげた方がいいと助言を受けたが、やはりもう運動も気分転換も就職活動も手につかなかった。

2009年秋に三菱UFJ信託銀行奨学会の会に出て、奨学生は採用に有利だと聞いても、自分はダメだと思うことしかできなかった。


日本交通公社で10月からバイトをしていたが、11月頃から精神的な落ち込みのために頻繁に休むようになった。しかもバイトの日、当日にメールでやっと伝えることしかできなかった。会社に行けたとしても集中できず、頭に物事が入らず、意識が飛んだりしながら、やっとの思いで続けていた。担当の人たちもそれを察したように少し心配していてくれたようにも思える。


(これは聞き間違いかもしれないが・・・)
11月か10月にU先生の記念講演ということで研究室のOB/OGが集まって会食をしていた時に、SMが少し離れたところでOBと話していてAの方を見ながら、
「あいつは人格的にどうかな・・・。おかしい・・・。」
のような意味のことを言っていたようにその当時聞こえた。幻聴が多くなっていたので聞き間違いかもしれないが、かなり不安になった。



この頃、できるならば早く就職先を決めて、論文を書いて、卒業できるならば2010年の3月に間に合わせたい、早くこの混乱状態から抜け出して精神的に安定したいと必死になっていたが、全てが空回りだった。
その頃、研究室のK先輩が研究の指導をしてくれることになり、気持ちを改めてK先輩に従って調査をして論文を書こうとしていたが、身体はついてこなかった。
また、前の大学の指導教授のF先生とも研究会の時に会い、就職や研究のことで少し相談することができたが、ただ就職と研究で悩んでいるというようにしか話せなかったと思う。

教授から侮辱行為を


アルバイトで行っていた会社での仕事でも突然意識がなくなることが多くなっていった。
研究室会議でも、研究目的のためのヒアリング調査でも自分が話していないときに居眠りをすることが多くなっていった。歯で頬をかんだり手をひねったりしてもどうすることもできなかった。

SMはF先生とMKさん、Aを誘い昼食に大学近くの飲食店「郷」へ行ったが、ニュースの話になったときにAがそのニュースを知らなく何かを質問したところ、SMは
「私は、人に質問をするときはよく考えてするように子供に教えている」
とその時のA、Aの育った環境などを侮辱するようなことを他の二人の前で堂々と言った。
また、SM研は人気があって後輩たちが代々入れるように頑張っているとMKさんが話すと、SMは得意そうにそうだろう、Aもちゃんとやれよというような態度を見せた。


10月か11月、Aは三次元建築について自宅でインターネットを使ったり、集めた資料からやっとのことで発表資料をまとめた。もう精神的に追い込まれていたので、布団から出ることもできず、必死の思いで調べて作った。きっとできの悪い資料だったと思う。しかし、その時にできることはやっていた。しかし、ゼミでSMはAの発表にろくにアドバイスもせずに都立大のT先生に相談するようにと言った。Aはその時、ちゃんと研究をやっていないと思われ、その他にも面倒なAに手を焼いていたので、SMは自分の指導からAを切り離そうとしたのだと思った。

10月か11月に精神的な落ち込みで立ち上がることができず、研究室のグループ会議を休むためTAくんに欠席すると伝えてくれと頼んだところ、彼も休むといい、外に出て散歩した方がいいよと助言してくれたが、もうすでにこのころには自力で外に出る力が残っていなかった。


都立大のT先生が研究関係でSM研究室を訪れた。その際にSMがAに
「T先生の都合を今のうちに聞いといたら?」
と言ってくれたので、AはSMに
「そうですね。」
と返した。自分では普通の応答の仕方だと思ってしたのだが、SMは
「そうですね?まぁいいか。」
と怒ったような態度を取った。このような意味不明のつっかかりをその他の時にも幾度もあった。そんなに不快にさせるようなことを言ってしまったのかと混乱した。


それからAはT先生に指導を仰げるようにと資料をまとめ都立大学へ行った。しかし、T先生もその研究は難しいということで指導を受けることはできなかった。
また激しく落ち込んだ。

事件が発覚するが教授の対応は・・・


この事件発覚の前か後か、このあたりにSMは研究室で開かれた宇宙建築研究会で、Aに
「この研究会、もうやめたいね。」
のような内容をさりげなく言ってきた。この時にすでにSMはASの詐称などの事実を知っていたのではないだろうか。
また、宇宙建築研究会への参加をAが知る限りでは2009年以降、この時期以前からキャンセルしたり出ても途中で帰ったり、途中から来たりという回が多かった。


研究室にも疑惑に関して記者やメールが来るようになった。しかし、SMは無視するようにと学生に言うだけで、適切な対処をしたかどうか疑問である。少なくともASに関係のある学生(FN含め)には何ら注意や指導をしなかった。本当だったら自ら疑惑を調べ、疑惑に気付いた時点で何か対策をするべきである。そうすればこれほど大きな問題にはならなかったはずである。被害拡大を無視、または責任を放棄している。それは自分が自ら犯した過ちが発端になっていると気づいていたからではないか。


ドイツで知り合った学生3人とその友人の計5人で新宿で会うことになった。その日はやっとの思いでそこに行くことができた。そのうちの二人と翌日に浅草で待ち合わせして浅草見物をしようと約束した。しかし、当日二人は来なかった。電話も通じなかった。その時、一気に精神がまいり、とても強い自暴自棄、自己嫌悪になり、大学に帰るために地下鉄に乗ろうとしたが、その時、列車に飛び込んで自殺しようと体が動いていた。もうちょっと本気になっていたら、その時に確実に死んでいたかもしれない。


イタリア人で二回研究室に研究調査で来たことがあるVC氏と2011年にFNがこの問題について連絡を取っていたときに聞いた話では、台湾人の研究室のメンバーCさんが言っていたことで、SMは学生たちに研究室で何があったのかなど他の人に言わないように口止めしたらしい。
このVC氏は研究をするために東大に再び来て仕事をしたいと考えていたらしいが、ASの一件がありそれが叶わず今はイタリアで仕事をしているらしい。


精神的に滅入ってしまい、研究室の先輩や同輩後輩たちともなかなか会話ができなくなる。悪循環が続き徐々に学校にも来にくくなる。

友人のKO君に一人じゃアパートにいるのが怖いから来てくれと助けを求めた事がある。それほどいつも恐怖でいっぱいだった。


2009年秋か冬あたりから
ずっと、自分は精神年齢が中学生以下だ、だから人を傷つけ、失敗ばかりしてきたのだと思いつめていた。


SMと学生何人かで昼食に行った時(F先生とKさんと行った時かもしれない)
SMはAに
「彼女でも作れ。S(ドイツ人留学生)が好きなんだろう。Uが言ってたぞ。」
という内容のことを言った。SMに悪気はなかったのかもしれないが、プライベートなことに土足で踏み込まれるのは昔から好きでなかったのもあるが、この言葉はAにとって非常に不快だった。精神状態が悪かったのでなおさら嫌だった。


A、DF君、U君、TA君がバルコニーで話をしていると、SMが煙草を吸いに来た。そこで、就職や研究の話になった。SMはFNが研究テーマを変えようかと思っていると相談すると、ころころ変えるな、まじめにやれ、一つにしぼってやれ、というような自己の行いと矛盾するアドバイスのようなことを言った。
「一ヶ月間、就職のことは忘れて研究だけを考えて、データをまとめるなりなんなりびしっとまとめて来い。一ヶ月間テーマは変えるな。学生の本分は研究だ。」
というような発言をした。

そしてみなに向かって
「でも一ヶ月後にまたテーマ変えそうで怖いよね。(笑)」

また、就職に関しては
「Kが『最近Aに就職に関して質問されて疲れます。助けてください。』というメールが来たぞ。」
「建設業が危ないとかマイナスのことは言わないでくれる?(怒)。」
「Aは人の話を鵜呑みにするのか」
というようなことも言った。

しかし、2009年春のSM本人の授業で自分で建設業界は未来がない。ITとか他の業界を考えた方がいいなどと自分で言っていた。SMは就職担当だったので、社会情勢や建築業界のことを色々と考えていたのだと思うが、矛盾しているように感じられ、特に精神状態が悪くなっていたAにとっては混乱をひどくさせるものだった。


11月頃にF先生に研究や進路の事で相談した時に、
SMは大きな人物だから安心してなんでも相談した方がいいとアドバイスしてもらった記憶がある。
他の先輩も前に話していた時にSMは大きな人物で貫禄があると話していた。
その話を聞いた当時はそのような先生に巡り会えて本当に良かったと思った。
もう精神が混乱しすぎていて正しく人を判断することもできなくなっていた。


同級生の共同研究室のDF君の話によると、SMは「ASの経歴の半分が本当だったらすごいことだよね」というような内容をみなに向かって語っていたらしい。

この頃(10月か11月)、自宅で包丁を腹やのどにあてがい死にたいと思い始める。また、電気コンセントに何かを挿し込んで電流で死ねないかと思ったり、自殺できる方法を知るために頻繁に自殺サイトを見るようになる。
2009年秋からこのような状態がずっと続いていた。

混乱と助手の事件発覚


2009年8月
兼ねてから決めていたので、また、断ることもできないので安藤忠雄事務所に8月5日からインターンに行くことになった。
インターン中は環境が変わったためと仲間に支えられなんとか精神的にも持ちこたえていたが、それでも精神状態や考えや判断は不安定だった。
そのため15歳以前からずっと志望していた、ずっと建築のことばかり考えてきたのに、建築の設計という道に進む事に疑問や不安のような感情をもつようになり、それまでだったら願ってもない就職先だったであろう日本設計や安藤忠雄事務所の就職へのチャンスを逃してしまった。
日本設計に応募を出すかどうか直前まで悩んでいたが出せなかった。
同級生は安藤忠雄事務所に就職できるように上司と話をしていたが自分はそれをはたから観るしかできなかった。


この頃、ASによる新たな研究テーマ(インフラフリー技術を用いた観光プロジェクトを立ち上げ地域活性化や防災に貢献するという内容だったと思う)が通り資金を大学から出してもらえるようになった。


2009年9月
中旬に大阪から東京へ帰った
ASの研究プロジェクトにより海外調査旅行をする計画が持ち上がり、Aは先輩のHKさんが計画を考えるようにASに任された。

この頃、留学中に知り合った中国人の友人からSNS系の招待メール?が来て、そのメールを開けると自動的に自分がそのメールソフトに保存しているメールアドレスの相手に招待メールが自動的に送られてしまうということが起きて、Aはそれを全く知らずに開けてしまった。それがグループの研究室会議で話題になり、その時にSMが
「Aと友達になってもね・・・」
と言った。なんだか侮辱されているように感じた。


2009年10月
大学のカウンセリングにまた何回か行った。最初の方は就活に対する意欲がほんの少しの間、出ていたので前向きな姿勢でカウンセリングを受けることができたが、次第に気分が沈み始めた。
10月か7月だったかよく覚えていないが、若い担当の先生では経験がどうしても足りないと思い、一回年配の方にも話をしたいと申し出たが、いろいろとなぜ変えたいのかなど聞かれたり、カウンセラーは担当を変えられては困るというような意味の言動を示し、変えてもらうことを断念せざるを得なかった。どうして担当の人を短期的にでも変えてくれないのかと疑問に思った。
その後からかカウンセリングに行けなくなった。


10月か11月に日建設計の海外留学経験者向けの募集枠があるということを知り、日本設計や安藤事務所を受けなかった事に対する後悔も強くあったので、今度こそ受けようと考えて、日建設計で建築、都市それぞれで働く先輩を数人訪ねた。建築でないならば都市がやりたいのではないのかと考えるようになったが、身体が動かず、その先に何もできず、やはり自分は建築も都市も向いていないのではないかと思うようになった。
もしもそのタイミングで卒業するならば論文を2010年2月に仕上げる必要があり、しかし、インフラフリーの研究で進められるのかどうか希望がもてなかったし、新しい研究テーマを進める余裕もなく、何か調べたり作業をしていたが空回りするばかりでほとんど進まなかった。


この頃、朝日新聞?など一部記事にASの経歴詐称疑惑が取り上げられ、ASは次第に学校に来なくなっていった。新聞記者などが取材に研究室に頻繁に来るようになってきたが、SMや他の先生、学生は取材に応じることもなかった。
メールでも取材関係か何かのメールが来るようになったが、SMは学生(そばで聞いていたのはSMがUくんに対して言っていたことだった)に、
「最近変なメールが来るようになって困る。無視するように。」
という内容のことを言っていた。

教授の二枚舌


7月に行われていた就職説明会にもなんとか一度参加(奨学金を給付してもらっている三菱UFJ信託銀行)したが、その時もかなり精神的に辛く、話を集中して聞くことができなかったり、担当者へ学生側から一人ひとりする質問の時も何を言えばいいのかさっぱり分からなくなり(内容的に何を聞けばいいか分からないというよりも、頭が真っ白になる状態)、悪い印象を与えてしまうのではないかととても心配になった。その説明会以降は何もできなかった。住友商事かどこかのインターンシップに応募するためにネットで何かを書いて送った気がするが、それも何を書けばいいのか分からなくなった。
日本設計の留学経験者用の応募枠があると知り合いから連絡をもらい、その時は乗り気になっていたのに、それからしばらくしてポートフォリオを作るのも辛く、パソコンを開けない、開いても作業できない、という状況が長らく続いた。それからまたしばらくしてやっとの思いでA4版のポートフォリオを一枚作り印刷した。これがやっとだった。昔だったら一時間か二時間もあればできるような作業を一週間くらいか分からないが気力を起こすだけでもかなり時間もエネルギーも必要だった。これを安藤忠雄事務所にも持って行き、考えた末に応募しようかどうするか決めようと思っていた。
この頃から睡眠不足か否か問わずに友人の話の途中や会議中でも眠ってしまう異変が頻繁に起き始めた。
また、人が自分のことを悪く言っているように(実際悪く言っていたのかもしれないが)、幻聴のように聴こえる事が多くなっていった。


ASはGCOE用(だったと思うが)の新たな研究テーマを考えるように学生に振った。AS自身はミーティングに参加せずに学生だけに任せた。それに関わっていた学生はゼミで発表、報告していたのでSMもその内容を知っていたが特に指導するようなことはなかったと思う。



留学報告会がAUSMIPを立ち上げた教授たち、第六期AUSMIP生、第七期AUSMIP生、興味のある人たちの間で開かれた。Aはともにドイツへ留学していたTA君とともにSMから幹事を任されていた。しかし、仕事の斡旋はTAに対するものが多く、AはSMに避けられていると感じた。
当日、他の国へ留学した学生の発表が長引き、SMはドイツ組が最後だったので発表時間を縮めるよう指示した。そのため、Aは思うような発表をすることがまたしてもできなかった。加えて精神状態も危ない状況だったのでますます発表はうまくいかなかった。しかし、その後に部屋を使うような予定もなく、SM自身も会場に残り、パーティーに参加していた。パーティーの席でAがSMに留学でお世話になった、これからもよろしくお願いいたしますというような内容のことを言ったが、SMは煙たそうにすぐにAから遠のいた。AはますますSMに避けられていると恐怖心を抱くようになっていった。
SMはそれまで病気(鬱病)のために酒を飲むことを禁じられていたようだが、この頃には禁止がとけたようで酒を飲んでいた。


SMは自分で研究室の研究テーマを作り、内外に発表しておきながら、実際の研究指導では、さく時間や個人的扱いが差別的に異なるように感じられた。他大学(早稲田大学)でも自分でインフラフリーに関して可能性があると言っていたらしい(早稲田大学の知り合いがSMの早稲田大学での授業を受けていてそれを2009年初旬頃に聞いた)。AはSMはインフラフリーに期待している、自分がその研究をすることで貢献できると留学中も帰国してからも思っていた。
また、大学院に入学する前から自分はASの研究テーマであるインフラフリーに興味があり、試験の面接の時、留学の試験の面接の時、奨学金の申請の時の推薦文(自分で自分の推薦文の原案を考えてSMに持っていき、SMは若干加筆修正するもののほぼその内容で指導教官推薦文として出す。奨学金を申請する時は毎回このような感じだった。)、その後も何度か自分の興味関心について話す機会があり、SMもミュンヘン工科大学のTB教授にAはインフラフリーに大変興味があるからよろしく、という内容の連絡をしていた。留学中もAは研究室にレポートとして簡単な発表資料を出したこともあり、SMはAの研究に対する興味関心や意欲については理解していたはずだった。
Aはお世話になっているSMへの恩もあるので研究に一層励もうと思っていた。

しかし、2009年にAが帰国してから徐々にインフラフリー全般に関して指導の熱意も扱いもあらゆるものが変わっていったように感じられた。自分が考えているような研究ができないならばできないとはっきり最初に言ってほしかった。