2013年5月26日日曜日

大学院に入学

2008年2月から3月
SM研究室のMさんから宇宙建築についての本を共同で出さないかと持ち込まれ、いくつかスピンオフについて調べてまとめた。SMはその監修という立場で2ページほど書いているだけだったが監督していた。

2008年3月
奨学金を借りるためにSMに指導教員としての推薦文を書いてもらう必要があり、連絡すると、推薦文の下書きを自分で書いて来るようにと言われた。東京大学では普通のことかもしれないが、自己推薦文になってしまうのではないかと疑問に思った。その後に何回も奨学金申請を出すために同じように指導教員の推薦文を自分が書いてそれをSMがほぼ写し書きしていた。これでいいのかどうか分からない。大学ではこれが通例なのか。


2008年4月
大学院入学
AUSMIP(建築学専攻独自で進めている留学プロジェクト)についての案内を掲示板で観て、前々から留学してみたいと思っていたのと、海外で研究ができるという願ってもない希望が膨らみ申請した。

新しい環境に入ったが、これからの希望とこの研究室に入れたという歓びで日々充実していた。
SMは研究室会議でも適切なアドバイスをしたり、幅広い研究分野を一人で指導したり、人脈の幅も広く、多くの人に信頼されていて、物事を総合的な広い視野で冷静に考える事ができる人だと感じていた。
まだ誰も研究していない新しい分野を切り開き、幅広い挑戦を続けて、それによって社会に貢献しているという印象をもった。
また、N教授からは次期建築学専攻長になる器の人物と言われているという噂を聞いたりと、やはり優秀な人なんだなと思い、ますます尊敬の念が高くなり、研究室の一員になれたことに喜びを感じていた。
2009年に精神的な病になってからも、事件が明るみになるまではSMやASに対する信頼、尊敬の気持ちは変わっていなかったので、混乱や不正があったということは相当にAにとってはショックだった。SM、AS、大学に対する信頼も、今まで信じてきた道も希望も、自分に対する自信も一気に大きく崩れてしまった。大切な人を失うよりも、震災で家を失い原発の被害にあうよりも、比べられないくらい大きなショックと混乱だった。だからこんなにも重症な病になってしまったのだと思われる。

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