2013年5月26日日曜日

進路を決める

Aは2006年夏に知り合った東大の知り合いのつてもあり、東大の建築都市サークル「A+」に顔を出すようになり、2007年の春の文化祭でそのサークルのポスターのデザインが採用され作ることになった。
高専の時の希望は叶えられなかったので、大学院で入ってこの環境で建築を学びたいと思った。
他の東大の学部生の友人や知り合いに聞いても、SM研究室は人気が高いという話や、研究分野を調べても幅広く研究していて、建築や社会を幅広い視野で考える事ができそうだと、自分の方向性にも合いそうだと思い、ますます志望を強めていった。

Aは改めてSM研究室を訪問した。自分が大学院でやりたい研究テーマを書いてもっていったが、SMは研究テーマは受かってから考えればいいと受け付けてくれなかった。自分としてはやりたい研究と実際その研究室でできるかどうかのミスマッチングを避けたいという思いもあったのだが、それが普通なのかどうかその時点ではよく分からなかった。

ASに自分がやりたいと思っていた、インフラフリー技術を用いた建築の設計の研究について大学院でできるかどうか相談したら、できる、そういうことをやろうとしている、もし良かったら卒業設計でそういうことを一緒にやってみるのもおもしろいかもしれないという話だった。
方向性もあいそうなので最終的に大学院を受ける事を決めた。

しかし、もしも自分が考えているようなことをそもそもできないならば、自分は違う研究室を選んだ。もともとは意匠が好きで、都市にも興味があったから、意匠の研究室か都市系の研究室または都市工学科を受けていたと思う。その頃、都立大学の友人だったI君は都市工学科を受けると聴いていた。
考えている研究ができると確信したからこの大学院、この研究室を受けるのを決めた。
単に学歴を得るためや社会に出る保留として大学院に進んだわけではない。周りにはそういう考えで大学院に進む人たちが多かったが自分の状況は異なっていた。
実際、お金は全くといっていいほどなかったし、高専の頃から大学の学部の時も授業料免除や奨学金にお世話になり、15歳からアルバイトをして、時には日本株も中国株もやり、やっと勉学を続けることができていた。いつか努力は報われると信じて周りの人たちが部活や青春を楽しんでいる傍ら自分は勉学とアルバイトなどをしていた。
それだけ大学院での研究に自分の人生をかけてみたいという部分が大きかった。
しかし、ASは2009年、留学から帰国して直後からそういうこと(インフラフリー技術や新しい材料を使った建築等の設計)は今はできない、今は技術だけだという風になっていった。
ここに大きな混乱を覚え、どんどん精神が不安定になっていった。

0 件のコメント:

コメントを投稿