2013年5月26日日曜日

実家に強制送還


2010年6月下旬
自分の口では自分のことを何も言えない状態が2009年からずっと続いていた。客観的に見ることもできない。主観的に行動することもできない状態が長く続いた。

それからは以前と同じで自分一人では何もできず、食事は備蓄してあった米を炊いて食べるくらいだった。
母はその様子を心配し、Aを浪江に連れて帰ることにした。それからAは父と母の三人で暮らすことになった。
家にいても何もできず、ほとんど布団に入っているかテレビを見るくらいしかできなかった。食事は食欲がないことも多かったが、我慢して少しは食べるようにしていた。
外には出る事はできなかった。
この頃から、浪江で、紙の切れ端や半紙、本の余白、写真などに「○○○に時を戻してください」と願いを必死で書くようになった。2月にヨーロッパへ渡る前から駒込などで書き始めていたが、一日中、起きている間はそのようなことを書き続けた。
千羽鶴も願いを書きながら千羽以上折った。
長い間、動かない生活が続いていたので筋力も低下し生きる力もますます減っていった。しかし、自分ではどうすることもできなかった。
絶望感、失望感、後悔、怒り、憎しみ、恐怖、不安が入り混じった感情だった。



2010年8月
SMから休学するかどうかについて手紙と休学届が来た。心配していたということを少し書いていたが、今研究室や大学がどうなっているかとか、ASの問題はなぜ起きたのか、というような内容は一切書いていなかった。正直に知らせてもらいたかった。そして、なぜそのようなことが起きてしまったのか手紙でもメールでも説明してほしかった。
しかし、そのころのFNの精神状態ではまた先生に迷惑をかけて申し訳ないという気持ちと、これは嘘だ、これは悪夢だ、いつかきっと目が覚めてもとの状態に戻れると信じていた。


正常な時は想像もしないようなことをしていた。
ある朝、頭を坊主にすれば過去に戻してくださるのではないかと思い、はさみで自ら髪を切って坊主にした。


2010年9月
母は埼玉に引っ越すことになり、Aは父と二人で暮らすことになった。
それから父とちょっとしたことで衝突したり、何も話すことなく沈黙した日々が過ぎて行った。
話す日があっても退行現象が現れ始めたくらいだった。


この頃、SMから(郵便を出しているのは毎回秘書の人だが)休学届を出した方がいいと手紙が来たが、休学届は医師の診断書がないと経済的理由としか出せないと書いてあった。以後も同じだった。この頃は何も思う気持ちもわかなかったが(感情がなくなっていた)、その後、大阪にいる時に来た時は納得がいかなく、本当は病気で休学届をやむを得ず出していると書いた。


2010年秋
家から一歩も出られない日々が続き、何もできず地獄のような日々だった。台所用洗剤や洗濯用洗剤、風呂場用洗剤などを混合させて死ぬか、包丁で刺すか、など自殺願望は2009年からずっとあった。生きている方がよほど怖かった。
以前から書きためていた願いごとの紙に加えて、絵を描いたり、習字をして、過去に戻してくれるよう願いを藁にもすがるような思いで書くようになった。

電話を受け取ることも、外に出ることもできない。連絡をとることもできない。現実を見ることもできない。
いつしかAはいつか自分は警察に連れて行かれるのではないかと思うようになった。奨学金を返済できずに、何もできずに何の罪になるのか分からないが、捕まるのではないか、誰かに連れて行かれるのではないかという脅迫観念のようなものがあった。


Aはずっと長い間、このような不幸な家庭になったのは自分のせい、そして父親のせいだと思い詰め、ふとしたきっかけで怒り狂い、父親に
「お前のせいでうちの家族はこんなふうになってしまったんだ。反省しろ。責任をとって死ね。お前が死んだら俺も死ぬ。」
というような内容のことを言いながら、父親を何回も殴った(ちょっとしたことがきっかけで口論になり、父親が先に攻撃してきたので正当防衛だったが)。この時のけんかで右手小指の骨が曲がったのかずれたのか、現時点でもまだ力を入れないと揃わない。当時は大きく腫れ上がり痛かった。
Aが父親に言った内容のことは2009年冬からずっと思っていた。メールで一度父親にそのようなことを送ったこともある。

もう自分と他人のせいにするしかできなかった。

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