2013年5月26日日曜日

教授の二枚舌


7月に行われていた就職説明会にもなんとか一度参加(奨学金を給付してもらっている三菱UFJ信託銀行)したが、その時もかなり精神的に辛く、話を集中して聞くことができなかったり、担当者へ学生側から一人ひとりする質問の時も何を言えばいいのかさっぱり分からなくなり(内容的に何を聞けばいいか分からないというよりも、頭が真っ白になる状態)、悪い印象を与えてしまうのではないかととても心配になった。その説明会以降は何もできなかった。住友商事かどこかのインターンシップに応募するためにネットで何かを書いて送った気がするが、それも何を書けばいいのか分からなくなった。
日本設計の留学経験者用の応募枠があると知り合いから連絡をもらい、その時は乗り気になっていたのに、それからしばらくしてポートフォリオを作るのも辛く、パソコンを開けない、開いても作業できない、という状況が長らく続いた。それからまたしばらくしてやっとの思いでA4版のポートフォリオを一枚作り印刷した。これがやっとだった。昔だったら一時間か二時間もあればできるような作業を一週間くらいか分からないが気力を起こすだけでもかなり時間もエネルギーも必要だった。これを安藤忠雄事務所にも持って行き、考えた末に応募しようかどうするか決めようと思っていた。
この頃から睡眠不足か否か問わずに友人の話の途中や会議中でも眠ってしまう異変が頻繁に起き始めた。
また、人が自分のことを悪く言っているように(実際悪く言っていたのかもしれないが)、幻聴のように聴こえる事が多くなっていった。


ASはGCOE用(だったと思うが)の新たな研究テーマを考えるように学生に振った。AS自身はミーティングに参加せずに学生だけに任せた。それに関わっていた学生はゼミで発表、報告していたのでSMもその内容を知っていたが特に指導するようなことはなかったと思う。



留学報告会がAUSMIPを立ち上げた教授たち、第六期AUSMIP生、第七期AUSMIP生、興味のある人たちの間で開かれた。Aはともにドイツへ留学していたTA君とともにSMから幹事を任されていた。しかし、仕事の斡旋はTAに対するものが多く、AはSMに避けられていると感じた。
当日、他の国へ留学した学生の発表が長引き、SMはドイツ組が最後だったので発表時間を縮めるよう指示した。そのため、Aは思うような発表をすることがまたしてもできなかった。加えて精神状態も危ない状況だったのでますます発表はうまくいかなかった。しかし、その後に部屋を使うような予定もなく、SM自身も会場に残り、パーティーに参加していた。パーティーの席でAがSMに留学でお世話になった、これからもよろしくお願いいたしますというような内容のことを言ったが、SMは煙たそうにすぐにAから遠のいた。AはますますSMに避けられていると恐怖心を抱くようになっていった。
SMはそれまで病気(鬱病)のために酒を飲むことを禁じられていたようだが、この頃には禁止がとけたようで酒を飲んでいた。


SMは自分で研究室の研究テーマを作り、内外に発表しておきながら、実際の研究指導では、さく時間や個人的扱いが差別的に異なるように感じられた。他大学(早稲田大学)でも自分でインフラフリーに関して可能性があると言っていたらしい(早稲田大学の知り合いがSMの早稲田大学での授業を受けていてそれを2009年初旬頃に聞いた)。AはSMはインフラフリーに期待している、自分がその研究をすることで貢献できると留学中も帰国してからも思っていた。
また、大学院に入学する前から自分はASの研究テーマであるインフラフリーに興味があり、試験の面接の時、留学の試験の面接の時、奨学金の申請の時の推薦文(自分で自分の推薦文の原案を考えてSMに持っていき、SMは若干加筆修正するもののほぼその内容で指導教官推薦文として出す。奨学金を申請する時は毎回このような感じだった。)、その後も何度か自分の興味関心について話す機会があり、SMもミュンヘン工科大学のTB教授にAはインフラフリーに大変興味があるからよろしく、という内容の連絡をしていた。留学中もAは研究室にレポートとして簡単な発表資料を出したこともあり、SMはAの研究に対する興味関心や意欲については理解していたはずだった。
Aはお世話になっているSMへの恩もあるので研究に一層励もうと思っていた。

しかし、2009年にAが帰国してから徐々にインフラフリー全般に関して指導の熱意も扱いもあらゆるものが変わっていったように感じられた。自分が考えているような研究ができないならばできないとはっきり最初に言ってほしかった。

0 件のコメント:

コメントを投稿