2013年5月26日日曜日

少しずつ外の世界へ


3月11日の地震があって、TAくんやKさん、HKさんからメールが来た。秘書のKさんから母の電話に大丈夫かと連絡が来て、母に無理やり代わられて仕方なしに出たが、研究室のメーリスで流してもいいかと聞かれどう対応すればいいのか、とっさに判断を下せないため(症状の一つで脳の働きが良くないので)、了承したところ児玉さんのメーリスで研究室の人たちに自分の無事を知らせる内容が配信された。元気そうでした、と書かれていたが、とても元気な状態ではなかった。
自分からその人たちに返信することはその当時も今も無理であったので、やむを得なくそのままにしてあった。返信した方がいいと何度も思って、下書きさえしていたが、出せなかった。メーリスを見て、KさんやTS先生、KF先生からは若干安堵するような内容が書かれた返信が他の内容とともに送られていたが、SMからはなかった。


2011年3月4日から5月下旬まで埼玉の母と妹の家にお世話になり、その後は大阪にいる姉のもとで2012年5月までお世話になった。その後は福島にいる父親のもとで8月上旬までお世話になった。
2011年3月以降、以前まであんなに後悔していたことが全く後悔しなくなった。実際、それまで後悔していたことは取るに足りないささいなことばかりだった。そのようなささいな事に対する後悔しか考える事ができなくなっていた異常な状態だった。
当然、変えるべき点も気づくべき点もたくさんあった。それらを一つ一つ点検し終えた後はすっきりしたような感覚だった。
しかし、その他の苦痛や体調の異常は少しずつ良くはなってきたとは言え、それからもずっと続いていた。認知行動療法にもなるかと思い、毎日記録している。


頻度こそ最初の頃からだんだんと少なくなっていったとは言え、埼玉でも大阪でも福島でも家族との衝突が何回も起きた。まだ感情をコントロールすることができなかったためだと思うが、非常に危険な状態になることが多かった。家族に向かって、
「自分を殺せ、殺してくれ」
と言ったりしたこともあった。
また、逆に、
「今度何かしたら殺してやる、殺すしかない」
ということも言った事がある。
その後で、やはり自分は精神病院に入院するしかないのではないかと何回も絶望的に思った。
震災の一週間前に埼玉に移っていたので助かったのだが、逆にあんなに多くの命が一瞬にしてなくなったのに、なぜ自分は生きているのだ、死ねなかったのだ、なぜ生きなければならないのかと何ヶ月間かそういう気持ちだった。
毎日、悲しいのか、なんなのか分からない感情があふれ、止めどもなく涙があふれた。家族が観ていないところではいつものように泣いていた。

つい最近になるまで、虚しさ、孤独感、恐怖、焦燥感、不安、悲しみ、憎しみ、怒り、絶望感などのマイナスの感情に満ち、楽しさ、歓び、感謝、心地よさなどのプラスの感情を大きく上回っていた。
ちょっとした反動で、明らかにそちらに非がある場合には、人を殺すくらい簡単にできるのではないかと思われるような危険な状態が多かった。脳が完全に何者かに乗っ取られているような感覚だった。自分でも自分が分からない状態だった。

外を歩くときも長い間、帽子、マスク、メガネやサングラス(視力は良いので伊達眼鏡)などをかけないと外に出れなかった。

罪業妄想が2009年6月末ごろから2011年2月まで強く出ていた。それ以降は少しずつ軽くなっていったが、5月ころまで感じていた。

貧困妄想が2009年秋から2011年2月ころまでずっとあった。実際奨学金が貯めてあったのでそこまで心配する必要のない時期にもうお金がなくなる、なんでこんなに多額の奨学金を借りてしまったのだと気が狂いながら後悔して恐怖感があった。

強い非現実的妄想が2009年秋から2011年2月頃まであった。過去に戻れるとか、これは現実じゃないとか。完全になくなっておらず、2012年9月現時点でも度々これは夢ではないのか、現実ではないのではないかと思うことがよくある。

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