2013年5月26日日曜日

出会いの後

その出会い以降、AはASの論文などの情報を見せてもらうようになった(Macのパソコンに保存されている。このパソコンは自分が研究室の自分に割り当てられた机に置いておいたが、大学に来る事ができなくなってしまい置いたままになっていたが必要になるからと昨年2011年に研究室に着払いで送ってもらえるように返送用の箱を用意して送ったが、誰かに盗まれたようだと言われ、今も所在が分からない。工学部の11号館の8階に研究室があり、鍵も閉められるので部外者が入ってきて盗んでいくということはあまり考えられないと思うが)。

大学での研究室選考も近く、Aは以前から興味をもっていたF研究室とASのいるM研究室はつながりがあり、もしかしたらインフラフリーの研究を学部からできるかもしれないとも思い、選考で選ばれ受け入れられる(F教授は日本建築学会の副会長を務めた実績と信頼のある人である。東京大学建築の構法分野の内田研究室の出身でSM教授の先輩にあたる)。


2007年春
AはASが行っている研究をさらに詳しく聞くために何回か大学に赴き話を伺ったり、資料をもらってそれらを勉強していた。
「10+1」という雑誌の2007年春のNo.46は宇宙建築、極地建築の特集で、AS、SM、研究室の学生がインタビューに答えていて宇宙建築やインフラフリーの研究について書いていた。ASの宇宙飛行士の訓練の話も書いてあった。
インフラフリー技術を用いて、今までの建築学の枠にとらわれない広い視野で考えていて、今まで無駄に使われていたエネルギーを有効に使えるような仕組みをもとに建築を考えていると知って、大学院を目指した。ASの過去の論文や資料にそういった建築の写真があった。(しかし、結局はほとんどが他からの盗用だったようだ。)


Aはもともと中学の頃から建築や都市の設計をしたいと思って宮城高専の建築学科に入ったが、その頃から多少の変化はあったが、設計をしたいという想いはずっと続いていた。高専の卒業設計の時は平和記念館を考え、研究は都市計画もしたかったが都市の先生が出向してしまったため福祉の研究室でまちづくりの研究をした。大学に入ってからは新しい技術を用いながら人と地域、自然環境が調和しながら生活できる空間を設計したいと思うようになっていった。
Aは幼少の頃から普通の子供がする遊びの他に、変わった遊びをする習慣があった。親も親戚も不思議がっていたが、幼稚園児前後には砂場で道路を作り石を車に見立ててまちづくり遊びをしていた。小学生の中学年くらいになると誰から教わったことでもないのにノートに大都市から農村を道路を描きながらずっと自分の頭の中のまちをひたすら描いていた。数えてはいないが大学ノート30冊から50冊くらいは描いていたと思う。母が埼玉県朝霞市の出身で小さい頃から年に何回か東京に遊びに行ったり週末に家族で出かけたりしていて、乗り物から観るその光景を自分で描いてみたいと思ったからか、この遊びや東京で観ていた大きな建造物への興味、ものづくりが好きだということはその後の進路選択に大きな影響を与えることになった。
中学一年の夏にあった面談で高専という存在を初めて知り、そこで建築を学べるということを知り、それから普通高校進学より高専進学を強く考えるようになっていった。
また、中学3年の時に訪問した中国で異文化に触れ、国際交流して外国の人とでも通じ合えるという感動を味わえたことがその後の人生志向にかなり大きな影響を及ぼしたと思う。
高専4年の頃にはドイツの大学に訪問しホームステイもして、いつかまた海外に出るチャンスがあれば出たいと思うようになっていった。

2009年に精神を害するまでは時々後悔することはあったが、前向きに今までの人生を肯定していた。

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