2013年5月26日日曜日

大学との話し合いに動き出す


2012年1月28日
SMから手紙が来た。アランの幸福論を読んでそれを参考にしているとあった。
休学届を出す時期にはSMから毎回短い手紙が来るがどれも社交辞令的な事務的な感じを受けた。大学で何があったのかなどは毎回何も書かれていなかった。

この時の休学届け(2012年4月から9月までの休学期間)は医者からの診断書をもらえたので病気という理由になったが、今まで出してきた休学届けは医者に行くことすらできなかったので診断書がなく、診断書が出せないと経済的理由でしか出せないと研究室側から書かれていた。本当は病気のために休学しているのになぜ経済的理由にしなければならないのかと、正直、納得できなかった。


2012年7月
ふとネットで調べていたら、大学がSMのことを処分する旨の発表を2012年2月に行っていた事を知った。
大学側から自分や研究室の他の学生宛に大学での事件について何があったか、どうしたか、などが若干書かれた手紙が2010年秋に来たらしいが、当時はとても見ることもできなかったので、開封したのは2011年2月か3月だった。この手紙には、この一件によりSM教授が学生を指導することができなくなったため研究室を変えてほしいとの内容が書いてあった。

Aがその人生の中で、人を殺したいと思った事は何度かあったが、いずれもその時の衝動的な一時の感情だった。しかし、今回の数々の事件でこれほどまでに社会的にも個人的にも許せない事があっていいのかと、その一人の人物に対して身も心も怒りに満ち、憎悪でいっぱいになり、ここに刀があったらすぐにでも斬ってやると長い間、思うほどの恨みを買った人物はいなかった。この恨みは念となり相手を苦しめる事になるかもしれないとだんだんと2012年になって思えるようになってきたが、それでもこの憎悪はなかなか小さくならなかった。
遺伝子というものは長い間の習慣化した記憶を保存している。Aの先祖に武士の血筋があるということは長い間、数百年か千数百年か分からないが、ひとたび刀をもったらその遺伝子が思い出し、人を斬る事は簡単にできてしまうかもしれない。実際に、母方の祖父はそれを警戒して刀を売ったそうだ。Aは昔から優しい、笑顔がいい、癒し系キャラ、おとなしい、など穏やかな性格に観られていたし、甘く見られることも多かった。自分でも穏やかな方だと思っていた。しかし、何か許せないくらい怒らせるものがあると、感情を抑えるのは難しい。武士は平時には穏やかだが、有事には人が変わるという話しがあるが、遺伝子がそうさせるのかもしれない。
普通の時はそんなことは起こりえないが、忍耐の限度を超えた時はいつその遺伝子が発動するか分からない。ということをその人物は知っておくべきだと思った。


2012年7月31日
研究室の秘書のKさんから姉の電話に、これからの手続きについての連絡があり、後日書類が送られてきた。
退学して半年経ってからまた再入学するか、それとも10月から復学するか、とのことだった。


2012年8月
このまま黙っていても誰のためにもならないのではないか、また、問題を抱えているとこれ以上自分の症状も改善しにくいのではないか、病状が回復するに従って感情も少しずつ落ち着き、少しはコントロールすることができるようになってきて、今まで憎しみを抱いてしまっていた相手がいたがその気持ちが小さくなってきたということもあり、今まで自分の記憶にある情報、調べた情報の中でのことなので当然考えには偏りもあるし、間違いもあるだろうから、相手方の意見を聴くこともしてなるべく平和的に建設的に解決したいと思い、また、自分のこの経験を生かせるならば大学の仕組みや環境が良くなるように自分にできることがあれば何かしたい、自分もいつまでもこの問題を抱えていると本当に疲れてしまうし、また多くの人に迷惑をかけるようなことはしたくないし、このままでは誰のためにもならないので早く問題を解決し前に進みたいと思い、大学の相談室に相談しようと思うようになり、8月の中旬に電話をかけて相談するに至った。


2012年9月下旬
SMから相談室経由で退学や復学に関しての案内があったが、退学届の理由には、一身上の理由と書くようにと書いてあった。個人的な理由で退学する、というようにさせたいという意図が感じられた。これまでの休学届の時も毎回、経済的理由と書くようにと書いてあった。制度的にそうしか書きようがないのかもしれないが納得がいかないことだった。

それから


2012年4月か5月に医者に病名を聞いたところ、
自己同一性障害
うつ状態
うつ不安障害
もう一つ思い出せないが全部で四つの病名だった。


2012年9月に聞いたところ、
うつ状態
うつ不安混合状態
適応障害
ということだった。


2009年頃から自分で把握、推測していた症状は
パニック障害
統合失調症もある。


自分でネットで2012年8月に調べたところによると、鬱病などの精神疾患はこれまで情報伝達物質の分泌異常によりその授受がうまく機能しないために様々な症状を引き起こすとされていたらしいが、東北大学名誉教授、総合南東北病院高次脳機能研究所の所長だった松沢大樹氏によると、海馬の先にある扁桃核という部分、乳幼児の頃から発達している脳の中でも原始的な部分で、快、不快、怒り、不安、恐怖など最も基本的な感情を司る部分が、強い精神的なショックで凹みのような傷がつくられ、海馬の萎縮などの影響も及ぼすそうだ。そうなると普段機能している前頭全野の働きも効かなくなり、そのため感情のコントロールがうまくいかなくなる、記憶すること、引き出す事がうまくできなくなるなど様々な症状を引き起こしてしまうらしい。

自分も今まで情報伝達物質だけが原因だとはずっと疑問だった。薬も医者も、製薬会社と医者との癒着もあるという話も聞きますます信用できなくなった。薬は偶然この症状に効用があると分かったというくらいの、副作用も危険なものなのではないかと2009年頃からだんだんと知っていった。
そのこともあり、自分は2012年1月以降、医者に通っているが薬は飲まないようにして、内面や良い刺激を増やすことで改善できるように心がけている。



高専の頃は15歳から寮生活をしていて、一年生の頃は体罰こそはなかったが厳しい全体指導が毎晩あり、挨拶、生活、時間の使い方などにも規則があり、ある保護者は子供がかわいそうで警察に訴えたこともあったが、自分としては、指導を与える人たちのためになるようにという考えがその指導にあって始めて厳しい指導も成り立つし、それらは自分たちのためになると思えたし、自分はそういう人を本当の意味で育てる教育は苦にならないが、現代社会に多い、個人的なストレスやわがままを反映しているかのような指導は自分のためになるとは思えず、不条理、疑問、憤り、戸惑いを感じることが多かった。



2012年から内科なども行ったが、そこで分かった症状で2009年以降の心身の病とそれによる不摂生な生活による症状として関係がありそうなものとして、不整脈が診断された。2009年の暮れから2011年年内頃までは脈が時々おかしく感じることが多かったり、緊張状態になるとかなり脈が乱れて一定のリズムの脈ではなかった。

また、2009年以降のことと関係があるかどうか分からないが、尿酸値が高いということも診断された。

2009年から2011年の春ころまで、あるいは最近も、生まれてこなければ良かったと思うことが頻度こそ変わってきたがあった。2011年春まではほぼ毎日思っていた。


2011年2月、3月あたりから、少しずつ、外に出る事、人と話す事、電車に乗る事など身近な事から徐々にリハビリを始めた。
そして、大学の問題をなるべく早く解決して、自分の道を進めるようにできることはなんでもしてきた。
普通の人から観れば普通に観えても、自分としては何をするにも必死だった。
2011年の夏を過ぎたあたりからか冬頃になってからか、徐々に生きる希望や自分や人を信じてみようと思えるようになってきた。しかしまだまだ本当に信じることはできなかった。
気持ちや考え方も徐々に変わることができるようになってきたと思う。
当初は医者も信じる事ができなかったが、2012年1月からようやく医者にも通えるようになった。一カ所だけだと偏ると思ったので二カ所行くことにした。


2011年2月から毎日記録をつけるようにして今もつけている。
その頃からずっと、できるならば早く解決して自分の道に進みたい、この経験を生かして前向きに建設的に自分にできることを社会に還元していきたい、大学で今回のような事件がもう起きないようにそれによって自分のような思いをする人が出ないように自分ができることはしたい、昔から思っていた社会に貢献できることを今の自分、これからの自分ができることをたとえ小さい事でも実践していきたいと思うようになっていった。

自分だけではなく、多くの人や企業、団体がASを信じて騙されていた。


2011年4月
これまでの間、奨学財団との連絡もとることができなかったため、返済猶予願いやレポートの提出などできないままになっていたものがある。
やっと連絡ができるようになり、日本学生支援機構に猶予願いを少し前に出していたが、行き違いになり、猶予願いも返済もしていないという状態と観られ、債権回収会社から督促の通知が来て、今後すみやかに返済しない場合はブラックリストにのせるというようなことも書かれていた。
このような通知でも相当な恐怖と憤りを感じた。
生活を再建する過程で、今まで連絡がとれなかったために生じた問題の結果、このようなことはそれ以後も何回もあった。

少しずつ外の世界へ


3月11日の地震があって、TAくんやKさん、HKさんからメールが来た。秘書のKさんから母の電話に大丈夫かと連絡が来て、母に無理やり代わられて仕方なしに出たが、研究室のメーリスで流してもいいかと聞かれどう対応すればいいのか、とっさに判断を下せないため(症状の一つで脳の働きが良くないので)、了承したところ児玉さんのメーリスで研究室の人たちに自分の無事を知らせる内容が配信された。元気そうでした、と書かれていたが、とても元気な状態ではなかった。
自分からその人たちに返信することはその当時も今も無理であったので、やむを得なくそのままにしてあった。返信した方がいいと何度も思って、下書きさえしていたが、出せなかった。メーリスを見て、KさんやTS先生、KF先生からは若干安堵するような内容が書かれた返信が他の内容とともに送られていたが、SMからはなかった。


2011年3月4日から5月下旬まで埼玉の母と妹の家にお世話になり、その後は大阪にいる姉のもとで2012年5月までお世話になった。その後は福島にいる父親のもとで8月上旬までお世話になった。
2011年3月以降、以前まであんなに後悔していたことが全く後悔しなくなった。実際、それまで後悔していたことは取るに足りないささいなことばかりだった。そのようなささいな事に対する後悔しか考える事ができなくなっていた異常な状態だった。
当然、変えるべき点も気づくべき点もたくさんあった。それらを一つ一つ点検し終えた後はすっきりしたような感覚だった。
しかし、その他の苦痛や体調の異常は少しずつ良くはなってきたとは言え、それからもずっと続いていた。認知行動療法にもなるかと思い、毎日記録している。


頻度こそ最初の頃からだんだんと少なくなっていったとは言え、埼玉でも大阪でも福島でも家族との衝突が何回も起きた。まだ感情をコントロールすることができなかったためだと思うが、非常に危険な状態になることが多かった。家族に向かって、
「自分を殺せ、殺してくれ」
と言ったりしたこともあった。
また、逆に、
「今度何かしたら殺してやる、殺すしかない」
ということも言った事がある。
その後で、やはり自分は精神病院に入院するしかないのではないかと何回も絶望的に思った。
震災の一週間前に埼玉に移っていたので助かったのだが、逆にあんなに多くの命が一瞬にしてなくなったのに、なぜ自分は生きているのだ、死ねなかったのだ、なぜ生きなければならないのかと何ヶ月間かそういう気持ちだった。
毎日、悲しいのか、なんなのか分からない感情があふれ、止めどもなく涙があふれた。家族が観ていないところではいつものように泣いていた。

つい最近になるまで、虚しさ、孤独感、恐怖、焦燥感、不安、悲しみ、憎しみ、怒り、絶望感などのマイナスの感情に満ち、楽しさ、歓び、感謝、心地よさなどのプラスの感情を大きく上回っていた。
ちょっとした反動で、明らかにそちらに非がある場合には、人を殺すくらい簡単にできるのではないかと思われるような危険な状態が多かった。脳が完全に何者かに乗っ取られているような感覚だった。自分でも自分が分からない状態だった。

外を歩くときも長い間、帽子、マスク、メガネやサングラス(視力は良いので伊達眼鏡)などをかけないと外に出れなかった。

罪業妄想が2009年6月末ごろから2011年2月まで強く出ていた。それ以降は少しずつ軽くなっていったが、5月ころまで感じていた。

貧困妄想が2009年秋から2011年2月ころまでずっとあった。実際奨学金が貯めてあったのでそこまで心配する必要のない時期にもうお金がなくなる、なんでこんなに多額の奨学金を借りてしまったのだと気が狂いながら後悔して恐怖感があった。

強い非現実的妄想が2009年秋から2011年2月頃まであった。過去に戻れるとか、これは現実じゃないとか。完全になくなっておらず、2012年9月現時点でも度々これは夢ではないのか、現実ではないのではないかと思うことがよくある。

突然考え方が変わった


2010年冬
夜に外に出て、家(寮)の敷地内から空を見上げ、星を見る日が何回かあった。流星群も見ていた。流星に向かってすがるように昔の安心だったころに戻れるようにと祈っていた。
この頃に家(寮)の談話室に地デジ対応のテレビがやってきた。そこでBSやCSなどの番組を見ることで、少しずつ気分が変わっていったようにも感じる。


2010年に浪江にいた頃も、2009年に駒込にいた頃も、死刑や飛び降りている人をテレビで見ると、いつか自分もこうなると恐怖にかられていた。


2011年2月初旬
いまだに自殺願望は続き、先を考えることはとてもできなかったが、ある頃から、この病になったのは自分にも性格的なものや育った環境などで多少の種はあったのかもしれないにせよ、本当の原因は実は自分の他にあったのではないかと思うようになった。もちろん、自分にも原因があるし、至らないところばかりだったからこうなったのだとずっと思っていたが、少しずつ、建設的なことを考えられるようになっていった。
今回の自分の場合、全て自分の過失なのか、それとも、大学側の過失が大きかったのか、考えるようになった。
自分は実は被害者でもあるのではないかと思うようになった。今までずっと自分を責め続けてきたので、これが現実であるならば、自分が悪いのだと信じていたが、そもそもの原因を記憶をたよりによく考えるようになっていった。
情報が得られないので、現在、どのようになっているか知ることができなかったが、姉からその頃に手紙が届いた。それによると、ASは処分され、SMの処分も大学側が検討しているとのことだった。やはり、そちら側が悪かったのではないか、それがなければ、自分は今このような状態になっていなかったと考え直すようになった。事実、2009年3月までドイツにいたころまでは、海外生活で生じる困難も、トラブルも苦に感じることも少なく、楽しく過ごしていたし、過去の自分を思い出しても結構前向きな性格だったのではないか、マイナス思考がプラス思考を上回ることはなかったのではないかと思うようになった。
しかし、この時もまだ自分自身を信じられない状態だったので、この考えが正しいのか、間違っているのか、本当の自分とはどのようなものだったのか、いまだ現実と非現実世界を行き来しているかのようだ。


2011年2月5日
この日から、これまでのいきさつや自分の状態、過去にあったSMやAS、大学側とのやり取り、これからの方針などを書きだすようになっていった。

2月6日
闘うのはやはり間違っているのではないか、自分にはできないのではないかなど、消極的な気持ちがこの日を支配していた。精神的な不安定さがまだ激しく、自分ではコントロールできない。

2月7日以降
闘いが終わった後の人生も少しずつ考えられるようになった。それとともに少しの希望も感じるようになっていった。

2月10日
母がSMから送られた手紙を見せてもらったが、そこには以前のように休学するのかどうかという内容、心配していたということ、自分の経験によると病院に行った方がいいということ、大学の事は心配しなくてもいいということ、焦らず無理をしないようにということが書かれたA4用紙一枚だった。また、研究室や大学で現在起きている内容、経過は書いておらず、姉から聞くまではAは大学で何が起きたのか何も知ることができなかった。姉はネットでたまたま観て教えてくれたそうだ。


SMから母に電話や手紙の内容
実家で医者に行きながら静養した方がいいのでは
大学は心配しなくてもいい(どんな意味だったのかは不明)
焦らずに無理しないように

実家に強制送還


2010年6月下旬
自分の口では自分のことを何も言えない状態が2009年からずっと続いていた。客観的に見ることもできない。主観的に行動することもできない状態が長く続いた。

それからは以前と同じで自分一人では何もできず、食事は備蓄してあった米を炊いて食べるくらいだった。
母はその様子を心配し、Aを浪江に連れて帰ることにした。それからAは父と母の三人で暮らすことになった。
家にいても何もできず、ほとんど布団に入っているかテレビを見るくらいしかできなかった。食事は食欲がないことも多かったが、我慢して少しは食べるようにしていた。
外には出る事はできなかった。
この頃から、浪江で、紙の切れ端や半紙、本の余白、写真などに「○○○に時を戻してください」と願いを必死で書くようになった。2月にヨーロッパへ渡る前から駒込などで書き始めていたが、一日中、起きている間はそのようなことを書き続けた。
千羽鶴も願いを書きながら千羽以上折った。
長い間、動かない生活が続いていたので筋力も低下し生きる力もますます減っていった。しかし、自分ではどうすることもできなかった。
絶望感、失望感、後悔、怒り、憎しみ、恐怖、不安が入り混じった感情だった。



2010年8月
SMから休学するかどうかについて手紙と休学届が来た。心配していたということを少し書いていたが、今研究室や大学がどうなっているかとか、ASの問題はなぜ起きたのか、というような内容は一切書いていなかった。正直に知らせてもらいたかった。そして、なぜそのようなことが起きてしまったのか手紙でもメールでも説明してほしかった。
しかし、そのころのFNの精神状態ではまた先生に迷惑をかけて申し訳ないという気持ちと、これは嘘だ、これは悪夢だ、いつかきっと目が覚めてもとの状態に戻れると信じていた。


正常な時は想像もしないようなことをしていた。
ある朝、頭を坊主にすれば過去に戻してくださるのではないかと思い、はさみで自ら髪を切って坊主にした。


2010年9月
母は埼玉に引っ越すことになり、Aは父と二人で暮らすことになった。
それから父とちょっとしたことで衝突したり、何も話すことなく沈黙した日々が過ぎて行った。
話す日があっても退行現象が現れ始めたくらいだった。


この頃、SMから(郵便を出しているのは毎回秘書の人だが)休学届を出した方がいいと手紙が来たが、休学届は医師の診断書がないと経済的理由としか出せないと書いてあった。以後も同じだった。この頃は何も思う気持ちもわかなかったが(感情がなくなっていた)、その後、大阪にいる時に来た時は納得がいかなく、本当は病気で休学届をやむを得ず出していると書いた。


2010年秋
家から一歩も出られない日々が続き、何もできず地獄のような日々だった。台所用洗剤や洗濯用洗剤、風呂場用洗剤などを混合させて死ぬか、包丁で刺すか、など自殺願望は2009年からずっとあった。生きている方がよほど怖かった。
以前から書きためていた願いごとの紙に加えて、絵を描いたり、習字をして、過去に戻してくれるよう願いを藁にもすがるような思いで書くようになった。

電話を受け取ることも、外に出ることもできない。連絡をとることもできない。現実を見ることもできない。
いつしかAはいつか自分は警察に連れて行かれるのではないかと思うようになった。奨学金を返済できずに、何もできずに何の罪になるのか分からないが、捕まるのではないか、誰かに連れて行かれるのではないかという脅迫観念のようなものがあった。


Aはずっと長い間、このような不幸な家庭になったのは自分のせい、そして父親のせいだと思い詰め、ふとしたきっかけで怒り狂い、父親に
「お前のせいでうちの家族はこんなふうになってしまったんだ。反省しろ。責任をとって死ね。お前が死んだら俺も死ぬ。」
というような内容のことを言いながら、父親を何回も殴った(ちょっとしたことがきっかけで口論になり、父親が先に攻撃してきたので正当防衛だったが)。この時のけんかで右手小指の骨が曲がったのかずれたのか、現時点でもまだ力を入れないと揃わない。当時は大きく腫れ上がり痛かった。
Aが父親に言った内容のことは2009年冬からずっと思っていた。メールで一度父親にそのようなことを送ったこともある。

もう自分と他人のせいにするしかできなかった。

日本に帰って来るが・・・


2010年春
その後は、母と妹が浪江に帰って、Aは一人東京で過ごすことになった。しかし、外に出ることもできず、学校にも行けず、ずっと部屋に引きこもる状態が続いた。

春になると妹が仕事のために上京してきた。最初のうちは母も一緒に暮らした。
その後、妹と二人で暮らすようになった。

そのころに研究室のKM先輩とTA君が家に来てくれた。SMが医者に行くように駒込の近くの医者を探してくれたそうだ。それと研究室には休学しててもいつでも来れるから来れるようになったら来なさいと言っていたそうだ。しかし、医者はおろか外にも出る気力や勇気も出ず、家族の支援や理解も核心まで届かず、それ以前に医者や薬も信用できなくなっていた。それ以上に、この現実が信じられなかった。

その前後にAはASが大学側に懲戒処分されたことを知る。

Aは怒り狂いながらAS関係の本や資料を破り捨てる。しかし、何も変わらなかった。捨てることによって過去へ戻れると信じて捨てた。もう完全に気が狂っていた。


駒込、浪江にいた頃は、本当に毎日、いつも、地獄のような感じだった。
苦しみ悶えて、じたばたして、手足をこすり、目の下は痙攣し、脈は乱れ、呼吸も乱れ、夜は眠れず昼も眠れず、頭は押さえつけられているようにしめつけられているように痛く、誰にも頼れず、自分も信じられず、その瞬間を生きていること自体が苦痛過ぎて死にたいとずっと思っているような日々。まさにこれを地獄と言わないでなんと言えばいいか分からないような日々だった。まさに高い所から落下しているのを体感しているような感じだった。すぐにでも床が抜けてさらなる地獄へ落とされるのではないかと思えるほどだった。


自分は今までの人生で、それなりの自信をもって自分を肯定していたが、病になり、簡単な、小学生でもできるような問題もできなくなり、新しく覚えることなどほとんどできなくなり、パニックになり、自信を極度になくした。


うちの家庭は基本的にいい意味での自由、放任主義で、経済的にもあまり余裕のない家庭だったが、その御陰もあり自分は向上心、向学心を培うことができたという部分もあり、親はそんなに自分に対して期待はしていないようにも観えていたが、それでもこういう状況になって何もできなくなった自分を観て、ひどく悲しんだ様子だということが察することができる。自分は長男で他に男の兄弟がいないため、自分には将来、親を世話する仕事もあると子供の頃から少しずつ考えてはいたが、このようになって迷惑と世話をかけることしかできなくなり、申し訳ない気持ちとやるせない気持ちでいっぱいだった。

オーロラを観て・・・


2010年2月上旬
母と妹が再び東京に行くのでそれにあわせてAも東京に帰ることにした。なんとか電車やバスに乗ることができた。

母と妹が東京から浪江に帰った数日後に、今度こそはオーロラが見える寒い土地で凍死しようとフィンランドへ飛び立った。成田空港から最低限の荷物をバックに詰めてヘルシンキ空港までの便に乗った。ヘルシンキから夜の電車でロヴァニエミの先の駅まで乗った。翌朝に着き、そこから歩いて隣町までの道で倒れてそのまま凍死しようとした。一日中歩き暗くなり大型トレーラートラックなどが行きかう国道のような道を歩いていたが、なかなか力尽きないので自分から雪の中に倒れこんだ。そうしていると、ある車が止まり、Aを保護し家に泊めさせてくれた。英語が通じなかったが、やさしくしてくれた。一瞬我に返る瞬間もあったが、そうなると余計に怖くなってしまった。

その翌朝、隣町に行き、再び凍死できそうな場所をさまよい歩いて探した。なかなかないので夜にバスでロヴァニエミに帰ることにした。寒くて、虚しくて何をしているのか分からなかった。司馬遼太郎の「人間とは」という本と新渡戸稲造の「武士道」の二冊を持ち歩いていた。

ロヴァニエミからヘルシンキまで戻り、ひとまずユースホテルに泊まった。その晩から飲まず食わずで餓死しようと計画を改めた。本を読んだりして一日中ほとんどホテルの中で過ごした。何日泊まっていたかは覚えていない。5日以上水も飲まなければ死ねるという情報があったので、その通りになるまで待っていたが、空腹感は通り過ぎたがのどの渇きは一向に止まらなかった。水を飲まずホテルのサウナで汗を出し、ふらふらになりながら死を待っていたが、実現できなかった。ついにのどの渇きを我慢できずに5日たったころに飲み物を買ってしまった。餓死計画もできず、ますます絶望感を強めヘルシンキの街をあてもなくさまよい歩き、教会の塔に登ろうとしたり、凍った川に飛び込もうとしたりした。

その後、ホテルを変えた。本棚になぜか「嫌われ松子の一生」という普通に日本語での本が置いてあった。なぜかその本から気が離れなくなり、寝ないままずっと読み続けた。ささいなことから職場や実家、故郷から追われた松子、だんだんと崩壊していく人生、ふとしたところから人の人生は壊れていく、人から嫌われ迷惑をかけ、最後には浮浪者のようになり少年たちの暴力で不遇な一生を終える。
なんだか今までとこれからの自分のことを書かれている気がしてますます怖くなった。自分はこの先自殺するか自殺できなかったら浮浪者になっていつか死ぬのだろうと頭をよぎった。ヘルシンキでアルコールを買って泥酔して雪の中で埋もれようとか、ナイフか包丁を買って刺そうとか、考えたがどうすればいいのか分からなくなって、ヘルシンキ発ストックホルム着の船に乗ることにした。その船から凍てつく海へ飛び込もうと準備をした。しかし、実際甲板に立ってみるとなかなか飛び込むことはできなかった。ついにそのままストックホルムに着いた後、バスで市内を回り死に場所を探していた。その晩は教会に行ってユースホステルに泊まった。
次の日もバスで市内を回った。その次の日だったかいつだったかはっきり覚えていないが、ストックホルム郊外の島に面した凍った海沿いを歩き人気のないところへ進んだ。トンネルのようなちょうどいい場所があったのでそこで横になってそのまま心臓が止まるまで待とうとした。しかし、なかなか死なないので、海に飛び込むことにした。何十センチもの厚い氷になった凍った海の氷とまだ水の境まで進むと迷いもなく飛び込んだ。何回も這い上がっては飛び込んだ。しかし、最後まで沈むことはできなかった。死ぬことが怖かったのか、未練があったのか、水の中に死ぬことはできなかった。トンネルに戻り凍死するまで待った。しかし、死ねなかった。本当は死にたくはなかったのだ。やり直したかったのだ。なぜこのような状態になってしまったのか分からず、今までの人生を後悔し、楽しかった、あたたかかった昔を思い出してたまらなく悲しかった。

朝が近づいたのでそこでの自殺はあきらめ、ストックホルムまで戻ることにした。途中、民家を訪ねて体を温めてもらおうとした。尋常ではなかった。朝の4時か5時ころだった。何件かあたってようやく出てくれた家の人は体を温め、軽い食事も与えてくれた。そして駅までのタクシー代も払ってくれた。その時自分は乞食のような死人のようなもはや何をしているのかもわからなかった。人の優しさもその時の自分には届きそうで届かなかった。迷惑をかけているのは分かってもどうすればいいのか全く分からなかった。ストックホルム駅に戻るとシャワーを浴び体を温めた。足先と手の先が凍傷になっていた(この凍傷は足の部分はほとんど治ったが、手の爪はいまだに二枚爪になったりはがれやすい。2012.9.12現在)

駅で呆然としていたが、ここにずっといても死ねないと思い、電車でドイツを目指すことにした。ストックホルムからコペンハーゲンを経由しドイツへ入った。そこからどこへ行ったのか覚えていないが、コブレンツに行ったのか他の街か。

コブレンツは18歳の時に訪れた街だった。そのころに戻りたいとライン川とモーゼル川の合流地点に立つモニュメントで呆然としていた。そこで川に飛び込もうかと考えていた。川に流されていつか海に行きつくかと想像した。しかし、やはり死ぬことはできず、コブレンツから電車に乗った。そこからどこへ行ったのか覚えていない。
ミュンヘンに行ったのか、ニュルンベルクに行ったのか。その後ミュンヘンのホテルに泊まった。ミュンヘン、ニュルンベルク、リンダウ、インスブルック、その近くの村などを巡って死に場所を探した。インスブルックの近くの村では山に登り泥酔したところで崖から飛び降りようとした。それなら一瞬で終わると思った。しかし、冬なのでその山には登ることはできないと言われ、また途中まで行くバスも見つからず、自力でその山をふもとから登る気力も出ずに断念した。
また別の町では鉄塔に登り、飛び降りようと思ったり、冷たい川に飛び込んだまま流されようと思った。実際、川には何回か飛び込んだが死ねなかった。

その後とぼとぼ濡れたまま歩いていると中年の女性が通りかかり車を止めてどこに行くのか、と尋ねてきた。本当はどこに行けばいいのかこっちが聞きたいくらいだったが、宿を探していると言ったら車に乗せてくれて宿を一緒に探してくれた。しかし小さな村だったのでなかなか見つからなかった。仕方なく駅に戻り電車を待ってミュンヘンに行った方がいいと言うことになり、途中でマクドナルドで食料まで買ってくれた。

かなり情けないことだと思ったが、人の親切を断る力もなかったのでそのままもらって駅で待つことにした。そこに黒人系の男性がいてその人に女性が電車が車で一緒に待ってくれというようなことを説明した。女性が帰って違う人が来た時にその男性はAのことを馬鹿にしているような感じで何かドイツ語?で言っていた。もう何がなんだか分からなかった。女性がくれた毛布にくるまって電車を待っていた。
翌朝、そこからまたミュンヘンに戻り、郊外に行き電車に飛び込もうとしたができなかった。パスポートは直前にどこかに捨てて身元が発見されないようにして、死のうとした。それも実現せずにザルツブルクへ再び行き、ホテルに泊まった。その次の晩にインターネットでメールを久々に確認した。すると友人O君が捜索願いを出そうかとしているのを知り、それはやめてくれと我に返った。母と連絡を取り、日本に帰ることを決意し、飛行機を予約した。もうどうしたらいいのか分からないが、その時にできることは死ぬか日本に帰るかの二つに一つだった。

その次の日か数日後にミュンヘンから東京に帰るためミュンヘン発イタリア経由の成田着の飛行機に乗ることにした。空港で足の凍傷をなんとかしたほうがいいのかと思って、空港の診療所へ行った。診てもらったら医者に病院行かないと危険だと言われてミュンヘン市内の別の病院へ救急車で搬送された。そこで処置されて一晩入院した。相部屋になったのは高齢者だった。初めての入院体験だった。その翌朝に病院を発ってタクシーで空港まで行った。
イタリアを経由して東京へ帰ってきた。東京には母と妹が待っていた。父にも電話で帰国したことを伝えた。


もう現実がいったいどれなのかわからなくなっていた。
自分は犯罪者、罪深い者なんだと強く思い込んでいた。
過去の自分のここが、こういうところが悪かった、こうしたから、こうしなかったから、今このようになってしまったのだと非常に気が狂ったように自己嫌悪と自責の念にとらわれ、自殺行為、自傷行為を止められなかった。
死ぬ事で過去に戻れるとしか考える事はできなかった。


ヨーロッパに行っている間、
SMか研究室の誰かから電話が来て、

母は駒込に行って、

次の週か次の次の週に父は駒込に行って、

TAくんからも電話が何回か来て、

SMから捜索願を出した方がいいのではと電話が来て、

KOくんからもメールで捜索願を出そうか考えていると入っていた



2010年の春ころか2月の駒込に一時帰った時か、記憶が曖昧になっているが、NHKの大河ドラマ「龍馬伝」を見ていた時、今まで自分は社会に貢献できるようにと頑張ってきたつもりだったのに、もう自分は国のためにも家族のためにもほかの人たちのためにも何もできないと、ただ人に迷惑をかけ害になる人間でしかなかったのだと、自分とこの境遇に対する憤りで、食事をしながらテーブルを強く叩き、穴を何カ所も開けた。

また、髪の毛、髭はぼうぼうと乱れ、自己管理をすることもできなくなっていた。誰にも観られたくない姿であった。

引きこもり生活


2010年年明け
浅草浅草寺、明治神宮に母と妹と参拝した。外に出るのも怖かった。その数日後に母と妹は浪江に帰った。Aも東京に一人でいることもできず、大学にも行けず、何もできず、その数日後に浪江に帰った。

この頃かもう少し前か後か、現実が信じられず、感情もコントロールできず、パソコンの動作が鈍くなっていた時に強く叩いてだんだんと壊れてしまった。


2010年1月上旬から2月上旬
再び浪江で静養することになったが、すでに友人はじめ誰かと連絡をすることはできなくなった。
朝起きてから寝るまで何もやる気が出ず、テレビを見るくらいだった。外にも出る気がおきなかった。夜はなかなか眠れず夜中に何回も恐怖とともに起きた。何かにすがるようにしたり、謝ったり、怖がったり、尋常ではいられなかった。
なんとか研究室の同期が卒業旅行に行くという連絡を観る事はでき、一応参加するということになったが、行ける気は全くしなかった。その当日は自分は命を絶ちにヨーロッパにいた。その後、なぜ当日来なかったのか同期の人から連絡が来ていた。誠意のある対応を望むと書いてあった。その後、ヨーロッパから帰るしかなくなり、それからしばらくした後、旅行代金はなんとかお金の取り仕切りをしてくれていた同期のTAくんに返すことができたが、それが精一杯だった。


母は大学のカウンセリングから電話が来て相談しに行った。FNは全く行く力が残っていなかった。
そこで母はどのような説明をしたのか分からないが、その人か話をしたカウンセリングの人に、自分はいい経験しかしてこなかったから甘い考えなのではないか、失敗したことがないのではないか、逆境を知らないのではないか、挫折を味わったことがないのではないか、などと言われたそうだ。それを母から聞いてもなんとも思う気力も起きなかったが、今(2012.1.30)思うと、カウンセリングの立場で、しかも母親が部分的に話したくらいでなんでそんなことが判断できるのか疑問である。
その後もカウンセリングでは様子を見たいと言っていたが、その後、連絡があったかどうかは分からない。


この頃、以前より知っていた事だが、Ausmipなどで海外留学をしていた学生は申請すると、優秀な業績を残したと判断されれば日本学生支援機構の第一種奨学金の返済が免除になるというシステムがあるらしく、申請したかったが、もう現実を信じることが全くできなくなっていたため、申請することができなかった。

この時期からAは東京の駒込のアパートにいることは少なくなっていくが、長期間いない時でも空家賃を払っていた。自分でできない間は母が代わりにATMで振込をしてくれていた。
2010年の2月、7月から解約した2011年3月までを計算しても空家賃は10ヶ月分、月70000円の家賃だったので合計70万円は空家賃を払っていた事になる。その他にも光熱費の基本料金も空払いしていた。奨学金を多めに借りていたから払うことができたが、部屋を解約することもできない状態だった。

追い打ちをかける教授


2009年12月中旬から下旬
Aは浪江に戻ったがいまだ自殺願望は衰えずに戻った晩にまたワインとウィスキーを飲み前と同じ方法で低体温症にもっていこうとしたが失敗し、その翌日朝を迎えた。
まだ自殺願望は衰えずに東京に帰る日に電車で逆方向の仙台へ行き乗り換えて山形方向の宮城と山形の県境の近くの無人駅で降りた。雪が降り積もった日だった。その駅から歩いて川のほとりにある小屋のようなところで薄着になって凍死しようとした。しかし、いつまでたっても死にきれないために駅に戻り浪江の手前の原町駅まで戻った。そこまで父に迎えに来てもらい浪江に帰った。
その数日後、東京へ帰ったが、その晩にまたコンビニに行き、ウィスキーを買い今度こそ低体温症になろうとしたが失敗した。友人O君が心配して来てくれたがちょうど泥酔してわめいていた時だった。その時の記憶はうっすら残っている。翌朝、目が覚めるとO君も隣で寝ていた。
その数日後に研究室のK先輩が心配して部屋に来てくれた。死にたいと正直に言った。
最初は外に出れなかったため夕食を買ってきてくれた。次に何回か来てくれた日は一緒に外へ食事をとりに行った。それを何回か繰り返し、SMと会って話すように説得された。


2009年12月24日または25日
SMとK先輩と駒込で話すことになった。AはあまりSMと会いたくなかったが、先輩Kさんの勧めで昼過ぎに駒込の喫茶店で会うことにした。SMとAが会った瞬間、SMは持ってきたカレンダーでAを軽くどついた。普通の状態だったら全くたいしたことではないが、その時の自分にとってはとても苦痛なことだった。
Aは精神状態や問題などをその時の精神状態でできる限り話そうと紙に今までのいきさつを書いてもってきたが、SMは話を聞こうとしなかったばかりか、大きな×印をつけて、ゆっくり気長にという言葉を書いた。

そこでSMはAに、
「過去は忘れなさい。反省はしていけない。ゆっくり構えていればいい」
「うつ病は原因が分からない。ずっと医者と話していてある時、原因が分かってくるもので、今は原因探しはやめて、昔のことは考えないで、ゆっくりのんきに過ごせばいい。」
「うつ病の時は正しい判断はできない。悪いようにはしないから。就職に関しては大船に乗ったような気持ちで私に任せなさい。ま、Aを雇う会社はあるかどうか分からないが。研究に関してはKM先輩に従ってやりなさい。」
「学生の本分は研究だ。」
とアドバイス・指導のようなことを言っていたが、同時にAを侮辱しているようにも感じた。
また、SM自身もうつ病になったと研究室はじめ多くの場で言っていて、その症状や状況がどんなものか個人差があれどある程度察することはできるはずなのに、Aに対してそれをくんだような対応は皆無に等しいと言ってもいいのではないか。逆にそれでも罵倒することを言ったりしていた。後で心配しています、と言われても後の祭りである。


また、研究室で坂本先生の写真大会があり、TAくんが撮った、Aがオランダでシンガポール人の留学生Tと一緒にいる写真を出したそうで、それについても、研究室で話題になったみたいなことを言っていた。
また、
「好きな女の子のタイプでも考えていた方がいい。」
というようなことを言った。
少しでも明るい話題を話した方がいいと思っていたのかもしれないが、個人的なことにつっこんでくるそののりはどうなのかと正直不快だった。

また、
「うつ病は心の風、持病をもつようなものだ」
と言っていたが、風邪でこんなにひどくはならないと思った。あれは医療業界が鬱病は誰でもなりうる病気だから気軽に早めに医者にかかってほしいという宣伝文句で、あまりにも簡単にたとえ過ぎていると思った。

また、就職に関しては、
「親を選べないように上司は選べない。仕事は一緒にしている人で大きく変わる。嫌な奴と仕事しても楽しくないだろう。」
「こんなことで悩むAには海外では仕事、生活ができない」
「学生に社会を見る力はない。」
というようなことも言った。


その後、研究室に久々に行くことになった。SMとK先輩が今、行った方がいいとなかば強引に連れて行った。
タクシーで向かう時に、SMは、
「ホームレスになるよりはましだろう」
というようなことを言った記憶がある。
自分はこのまま行くとホームレスになるのではないかと内心恐怖に思っていたので、こう言われてますます怖くなった。


研究室の周りの対応はなんだか冷たく感じられ、ますます疎外されているような感じだった。

その晩に研究室に残っていたF准教授や秘書の方、学生などを集めて食事に行った。そこでSMはAの精神状態を隠してくれたが、
「昔同じ研究室にいたI教授も学生のころは何を考えているのか、何をやっているか分からないような学生だったが、就職して今では立派な研究者だ」
という内容のことを言っていた。Aを励ますために言ったのだろうが、どんなにできないやつでも、なんとかなるもんだ、という感じで言っているように感じ、自分はやっぱりできない者、怠け者なのだと感じた。

そして、SMF先生がいる場で、
Aの食事代はF先生が持ってくれるそうだ」
という内容の言葉を何回か言った。しかしF先生は聞いていなかったようで、えっと困惑した感じだった。
結局SMAの食事代を支払うことになったが、恩着せがましい感じだった。ポイントも他の人の全員分をちゃっかりいれていた。
SMは翌週に研究の打ち合わせのために研究室に来るようにAに言ったが、もはや行ける気力は残っておらず、Aはアパートで一人過ごすことになった。行けたら研究室に行きたい、行った方がいいということは分かっていたが、精神的にできなかった。


SMやKF先生、先輩のKさんは年末から何回かメールをくれた。
こんなにダメになった自分にあたたかい言葉をかけてくれる、見守ってくれる人がいてありがたいと思うと同時に、どうすることもできない自分がどうしても許せなかった。

初めての自殺行為


外見は生まれつきのこともあり比較的にこにこしているのか童顔だからか、あまり周りの人にはひどい状況には思えなかったのかもしれない。
しかし、状態は悪化の一途で、改善することはもはやできなかった。


2009年、恐怖に打ちのめされている間、手足は震え、ひざもガクガクし、目の下は痙攣し、吐き気がし、めまいがし、頭が針で刺されているようにズキンズキンと異常に痛くなり、焦燥感がいつもつきまとい、自分が周りが現実が信じられなくなり、外に出るのも怖くなり、わらにもすがるように、カウンセリングに電話し、行き、薬を飲み、外を走り、研究資料をつくり、電車に乗り、神社に行き、布団に入り、眠れない夜を毎晩過ごしていた。

対人恐怖症のように、人が近くにいること、接する事、話す事などが怖くなった。
記憶力や集中力、判断力、決断力、思考力、行動力、もろもろの能力が極端に出せなくなった。怖くて何もできないようになった。

心神耗弱に陥り、普段なら普通にできていることができなくなり、表情も暗くなり、優柔不断、暗い、話を聞いていない、気や考えがころころ変わる、覇気がない、あいそがない、空気が読めない、役に立たない、無能、バカ者・・・と散々大勢の他人から非難された、されているように錯覚するようになった。それによって更に精神的に追い込まれた。

だんだんと自暴自棄になっていった。


2009年12月あたま
この時期にはかなり追いつめられ、就職活動はおろか、アルバイトも休みがちになり、食事をとったり外に出る気力もなくなり、まだ体調がましなときには出前をとったりしていた。

12月10日に「SHIN LIFE」というサイトの岡崎さんという人に自分の精神状態や悩み、自殺願望などをメールで相談した。翌11日に返信が返ってきた。しかし、返信する力がなく、それ以降、自殺願望が極限に達した。


FNは就職活動も研究も何も進んでいないことからますます精神を病み、12月上旬に東京のアパートでアルコール度数の高いウィスキーを一気に飲み泥酔させ、外気に触れさせ体温を低下させ、意識をなくし、そのまま低体温症にもっていいき死を選ぼうと自殺未遂をおかす。しかし、酒を全て飲んだ後に吐いてしまったことから自殺はできずにそのまま泥酔し翌朝を迎えた。この日、酒を飲んでいる最中に家族だけに、これまでお世話になりました、さようなら、という内容のメールを送った。
翌朝、目が覚め、我に返りアルバイトへ行った。夜に母が東京へ駆けつけ、その晩は東京に泊まり、次の日に実家の浪江へAを連れ戻した。
友人や研究室の人たち、留学生の友人などから心配のメールや電話が来たが返答できなかったりできたとしても何も言えないまま浪江に帰って行った。とてもまともに返答できる精神状態ではなかった。


いつ頃からか、自分は武士の子孫なのに武士の精神がない、と何回も何回も自分を責めていた。もっと子供の頃から心身を鍛えていれば良かったと後悔した。切腹できるのならばここで早くやりたいと思うようになった。
母の父方は武士だったと話をいろいろ昔から聞いていたが、後で知ったところで、父の父方(藤井家。家紋は下がり藤。祖父と祖母が昔離婚して祖母の西山姓を名乗る事になった)も武士で、戦国時代に福島南部をおさめていた一族に仕える家老であり、他国が攻めて来た折りにまだ幼かった城主の首を差し出せば攻撃しないと交渉し、先祖は幼き主君の命を助けるために身代わりとなって切腹しその首を相手国城主に届けさせ、ことなきを得、後年、その城主がお礼に寺をつくったという歴史があったことを知った。

就活、研究がなかなか進まない


2009年11月
AとK先輩はヨーロッパへの研究調査旅行をASに勧められて計画を立てていた。アイスランドや北欧、ドイツなどを回る予定であった。GCOEなので大学にも通していた。しかし、10月頃からのASについての新聞記事などが公になるにつれ、AはASについて研究を進めていくこと自体が危険だと思うようになった。大学側もASについて疑うようになり、AとK先輩はこの調査旅行を続行するべきかどうかSMに相談し助言を仰いだ。こちら側から相談しに行ってやっとその調査旅行はやめた方がいいというようなことを言ったが、その他にはASの研究をしていた学生たちに注意をすることはなかった。
バルコニーで煙草を吸い、その他は忙しそうで、私に迷惑をかけないでくれという雰囲気だった。
AはSMが高圧的で自分を避けていると以前から感じていたということもあり、また、SMは以前からうつ病を患わっているのを知っていたので負担をかけないようにと極力直接的にASに関して相談することは避けた。本当はASのことを相談したかったし、事実関係を知りたかった。しかしできなかったし、SMは本来するべきなのにしなかった。
SMはこちらが聞かなければ何も対応をしようとはしなかった。
AとHKは大学側に事情を説明し研究調査旅行を停止した。


この頃からかもっと以前からかAはその時の現実を信じることができずに、これは悪夢でいつかきっともとの時間に目が覚める。過去に帰れると思い込むようになった。ネットのどこかにも書き込みをした。

大学のキャリアサポート室で就職相談を確か10月から受けていたが、志望動機(日建設計の留学生募集枠)の添削を頼んで話していたが、その担当者に精神的に大丈夫かということを聞かれ、軽く症状やいきさつを話したところ、運動して精神をあげた方がいいと助言を受けたが、やはりもう運動も気分転換も就職活動も手につかなかった。

2009年秋に三菱UFJ信託銀行奨学会の会に出て、奨学生は採用に有利だと聞いても、自分はダメだと思うことしかできなかった。


日本交通公社で10月からバイトをしていたが、11月頃から精神的な落ち込みのために頻繁に休むようになった。しかもバイトの日、当日にメールでやっと伝えることしかできなかった。会社に行けたとしても集中できず、頭に物事が入らず、意識が飛んだりしながら、やっとの思いで続けていた。担当の人たちもそれを察したように少し心配していてくれたようにも思える。


(これは聞き間違いかもしれないが・・・)
11月か10月にU先生の記念講演ということで研究室のOB/OGが集まって会食をしていた時に、SMが少し離れたところでOBと話していてAの方を見ながら、
「あいつは人格的にどうかな・・・。おかしい・・・。」
のような意味のことを言っていたようにその当時聞こえた。幻聴が多くなっていたので聞き間違いかもしれないが、かなり不安になった。



この頃、できるならば早く就職先を決めて、論文を書いて、卒業できるならば2010年の3月に間に合わせたい、早くこの混乱状態から抜け出して精神的に安定したいと必死になっていたが、全てが空回りだった。
その頃、研究室のK先輩が研究の指導をしてくれることになり、気持ちを改めてK先輩に従って調査をして論文を書こうとしていたが、身体はついてこなかった。
また、前の大学の指導教授のF先生とも研究会の時に会い、就職や研究のことで少し相談することができたが、ただ就職と研究で悩んでいるというようにしか話せなかったと思う。

教授から侮辱行為を


アルバイトで行っていた会社での仕事でも突然意識がなくなることが多くなっていった。
研究室会議でも、研究目的のためのヒアリング調査でも自分が話していないときに居眠りをすることが多くなっていった。歯で頬をかんだり手をひねったりしてもどうすることもできなかった。

SMはF先生とMKさん、Aを誘い昼食に大学近くの飲食店「郷」へ行ったが、ニュースの話になったときにAがそのニュースを知らなく何かを質問したところ、SMは
「私は、人に質問をするときはよく考えてするように子供に教えている」
とその時のA、Aの育った環境などを侮辱するようなことを他の二人の前で堂々と言った。
また、SM研は人気があって後輩たちが代々入れるように頑張っているとMKさんが話すと、SMは得意そうにそうだろう、Aもちゃんとやれよというような態度を見せた。


10月か11月、Aは三次元建築について自宅でインターネットを使ったり、集めた資料からやっとのことで発表資料をまとめた。もう精神的に追い込まれていたので、布団から出ることもできず、必死の思いで調べて作った。きっとできの悪い資料だったと思う。しかし、その時にできることはやっていた。しかし、ゼミでSMはAの発表にろくにアドバイスもせずに都立大のT先生に相談するようにと言った。Aはその時、ちゃんと研究をやっていないと思われ、その他にも面倒なAに手を焼いていたので、SMは自分の指導からAを切り離そうとしたのだと思った。

10月か11月に精神的な落ち込みで立ち上がることができず、研究室のグループ会議を休むためTAくんに欠席すると伝えてくれと頼んだところ、彼も休むといい、外に出て散歩した方がいいよと助言してくれたが、もうすでにこのころには自力で外に出る力が残っていなかった。


都立大のT先生が研究関係でSM研究室を訪れた。その際にSMがAに
「T先生の都合を今のうちに聞いといたら?」
と言ってくれたので、AはSMに
「そうですね。」
と返した。自分では普通の応答の仕方だと思ってしたのだが、SMは
「そうですね?まぁいいか。」
と怒ったような態度を取った。このような意味不明のつっかかりをその他の時にも幾度もあった。そんなに不快にさせるようなことを言ってしまったのかと混乱した。


それからAはT先生に指導を仰げるようにと資料をまとめ都立大学へ行った。しかし、T先生もその研究は難しいということで指導を受けることはできなかった。
また激しく落ち込んだ。

事件が発覚するが教授の対応は・・・


この事件発覚の前か後か、このあたりにSMは研究室で開かれた宇宙建築研究会で、Aに
「この研究会、もうやめたいね。」
のような内容をさりげなく言ってきた。この時にすでにSMはASの詐称などの事実を知っていたのではないだろうか。
また、宇宙建築研究会への参加をAが知る限りでは2009年以降、この時期以前からキャンセルしたり出ても途中で帰ったり、途中から来たりという回が多かった。


研究室にも疑惑に関して記者やメールが来るようになった。しかし、SMは無視するようにと学生に言うだけで、適切な対処をしたかどうか疑問である。少なくともASに関係のある学生(FN含め)には何ら注意や指導をしなかった。本当だったら自ら疑惑を調べ、疑惑に気付いた時点で何か対策をするべきである。そうすればこれほど大きな問題にはならなかったはずである。被害拡大を無視、または責任を放棄している。それは自分が自ら犯した過ちが発端になっていると気づいていたからではないか。


ドイツで知り合った学生3人とその友人の計5人で新宿で会うことになった。その日はやっとの思いでそこに行くことができた。そのうちの二人と翌日に浅草で待ち合わせして浅草見物をしようと約束した。しかし、当日二人は来なかった。電話も通じなかった。その時、一気に精神がまいり、とても強い自暴自棄、自己嫌悪になり、大学に帰るために地下鉄に乗ろうとしたが、その時、列車に飛び込んで自殺しようと体が動いていた。もうちょっと本気になっていたら、その時に確実に死んでいたかもしれない。


イタリア人で二回研究室に研究調査で来たことがあるVC氏と2011年にFNがこの問題について連絡を取っていたときに聞いた話では、台湾人の研究室のメンバーCさんが言っていたことで、SMは学生たちに研究室で何があったのかなど他の人に言わないように口止めしたらしい。
このVC氏は研究をするために東大に再び来て仕事をしたいと考えていたらしいが、ASの一件がありそれが叶わず今はイタリアで仕事をしているらしい。


精神的に滅入ってしまい、研究室の先輩や同輩後輩たちともなかなか会話ができなくなる。悪循環が続き徐々に学校にも来にくくなる。

友人のKO君に一人じゃアパートにいるのが怖いから来てくれと助けを求めた事がある。それほどいつも恐怖でいっぱいだった。


2009年秋か冬あたりから
ずっと、自分は精神年齢が中学生以下だ、だから人を傷つけ、失敗ばかりしてきたのだと思いつめていた。


SMと学生何人かで昼食に行った時(F先生とKさんと行った時かもしれない)
SMはAに
「彼女でも作れ。S(ドイツ人留学生)が好きなんだろう。Uが言ってたぞ。」
という内容のことを言った。SMに悪気はなかったのかもしれないが、プライベートなことに土足で踏み込まれるのは昔から好きでなかったのもあるが、この言葉はAにとって非常に不快だった。精神状態が悪かったのでなおさら嫌だった。


A、DF君、U君、TA君がバルコニーで話をしていると、SMが煙草を吸いに来た。そこで、就職や研究の話になった。SMはFNが研究テーマを変えようかと思っていると相談すると、ころころ変えるな、まじめにやれ、一つにしぼってやれ、というような自己の行いと矛盾するアドバイスのようなことを言った。
「一ヶ月間、就職のことは忘れて研究だけを考えて、データをまとめるなりなんなりびしっとまとめて来い。一ヶ月間テーマは変えるな。学生の本分は研究だ。」
というような発言をした。

そしてみなに向かって
「でも一ヶ月後にまたテーマ変えそうで怖いよね。(笑)」

また、就職に関しては
「Kが『最近Aに就職に関して質問されて疲れます。助けてください。』というメールが来たぞ。」
「建設業が危ないとかマイナスのことは言わないでくれる?(怒)。」
「Aは人の話を鵜呑みにするのか」
というようなことも言った。

しかし、2009年春のSM本人の授業で自分で建設業界は未来がない。ITとか他の業界を考えた方がいいなどと自分で言っていた。SMは就職担当だったので、社会情勢や建築業界のことを色々と考えていたのだと思うが、矛盾しているように感じられ、特に精神状態が悪くなっていたAにとっては混乱をひどくさせるものだった。


11月頃にF先生に研究や進路の事で相談した時に、
SMは大きな人物だから安心してなんでも相談した方がいいとアドバイスしてもらった記憶がある。
他の先輩も前に話していた時にSMは大きな人物で貫禄があると話していた。
その話を聞いた当時はそのような先生に巡り会えて本当に良かったと思った。
もう精神が混乱しすぎていて正しく人を判断することもできなくなっていた。


同級生の共同研究室のDF君の話によると、SMは「ASの経歴の半分が本当だったらすごいことだよね」というような内容をみなに向かって語っていたらしい。

この頃(10月か11月)、自宅で包丁を腹やのどにあてがい死にたいと思い始める。また、電気コンセントに何かを挿し込んで電流で死ねないかと思ったり、自殺できる方法を知るために頻繁に自殺サイトを見るようになる。
2009年秋からこのような状態がずっと続いていた。

混乱と助手の事件発覚


2009年8月
兼ねてから決めていたので、また、断ることもできないので安藤忠雄事務所に8月5日からインターンに行くことになった。
インターン中は環境が変わったためと仲間に支えられなんとか精神的にも持ちこたえていたが、それでも精神状態や考えや判断は不安定だった。
そのため15歳以前からずっと志望していた、ずっと建築のことばかり考えてきたのに、建築の設計という道に進む事に疑問や不安のような感情をもつようになり、それまでだったら願ってもない就職先だったであろう日本設計や安藤忠雄事務所の就職へのチャンスを逃してしまった。
日本設計に応募を出すかどうか直前まで悩んでいたが出せなかった。
同級生は安藤忠雄事務所に就職できるように上司と話をしていたが自分はそれをはたから観るしかできなかった。


この頃、ASによる新たな研究テーマ(インフラフリー技術を用いた観光プロジェクトを立ち上げ地域活性化や防災に貢献するという内容だったと思う)が通り資金を大学から出してもらえるようになった。


2009年9月
中旬に大阪から東京へ帰った
ASの研究プロジェクトにより海外調査旅行をする計画が持ち上がり、Aは先輩のHKさんが計画を考えるようにASに任された。

この頃、留学中に知り合った中国人の友人からSNS系の招待メール?が来て、そのメールを開けると自動的に自分がそのメールソフトに保存しているメールアドレスの相手に招待メールが自動的に送られてしまうということが起きて、Aはそれを全く知らずに開けてしまった。それがグループの研究室会議で話題になり、その時にSMが
「Aと友達になってもね・・・」
と言った。なんだか侮辱されているように感じた。


2009年10月
大学のカウンセリングにまた何回か行った。最初の方は就活に対する意欲がほんの少しの間、出ていたので前向きな姿勢でカウンセリングを受けることができたが、次第に気分が沈み始めた。
10月か7月だったかよく覚えていないが、若い担当の先生では経験がどうしても足りないと思い、一回年配の方にも話をしたいと申し出たが、いろいろとなぜ変えたいのかなど聞かれたり、カウンセラーは担当を変えられては困るというような意味の言動を示し、変えてもらうことを断念せざるを得なかった。どうして担当の人を短期的にでも変えてくれないのかと疑問に思った。
その後からかカウンセリングに行けなくなった。


10月か11月に日建設計の海外留学経験者向けの募集枠があるということを知り、日本設計や安藤事務所を受けなかった事に対する後悔も強くあったので、今度こそ受けようと考えて、日建設計で建築、都市それぞれで働く先輩を数人訪ねた。建築でないならば都市がやりたいのではないのかと考えるようになったが、身体が動かず、その先に何もできず、やはり自分は建築も都市も向いていないのではないかと思うようになった。
もしもそのタイミングで卒業するならば論文を2010年2月に仕上げる必要があり、しかし、インフラフリーの研究で進められるのかどうか希望がもてなかったし、新しい研究テーマを進める余裕もなく、何か調べたり作業をしていたが空回りするばかりでほとんど進まなかった。


この頃、朝日新聞?など一部記事にASの経歴詐称疑惑が取り上げられ、ASは次第に学校に来なくなっていった。新聞記者などが取材に研究室に頻繁に来るようになってきたが、SMや他の先生、学生は取材に応じることもなかった。
メールでも取材関係か何かのメールが来るようになったが、SMは学生(そばで聞いていたのはSMがUくんに対して言っていたことだった)に、
「最近変なメールが来るようになって困る。無視するように。」
という内容のことを言っていた。

教授の二枚舌


7月に行われていた就職説明会にもなんとか一度参加(奨学金を給付してもらっている三菱UFJ信託銀行)したが、その時もかなり精神的に辛く、話を集中して聞くことができなかったり、担当者へ学生側から一人ひとりする質問の時も何を言えばいいのかさっぱり分からなくなり(内容的に何を聞けばいいか分からないというよりも、頭が真っ白になる状態)、悪い印象を与えてしまうのではないかととても心配になった。その説明会以降は何もできなかった。住友商事かどこかのインターンシップに応募するためにネットで何かを書いて送った気がするが、それも何を書けばいいのか分からなくなった。
日本設計の留学経験者用の応募枠があると知り合いから連絡をもらい、その時は乗り気になっていたのに、それからしばらくしてポートフォリオを作るのも辛く、パソコンを開けない、開いても作業できない、という状況が長らく続いた。それからまたしばらくしてやっとの思いでA4版のポートフォリオを一枚作り印刷した。これがやっとだった。昔だったら一時間か二時間もあればできるような作業を一週間くらいか分からないが気力を起こすだけでもかなり時間もエネルギーも必要だった。これを安藤忠雄事務所にも持って行き、考えた末に応募しようかどうするか決めようと思っていた。
この頃から睡眠不足か否か問わずに友人の話の途中や会議中でも眠ってしまう異変が頻繁に起き始めた。
また、人が自分のことを悪く言っているように(実際悪く言っていたのかもしれないが)、幻聴のように聴こえる事が多くなっていった。


ASはGCOE用(だったと思うが)の新たな研究テーマを考えるように学生に振った。AS自身はミーティングに参加せずに学生だけに任せた。それに関わっていた学生はゼミで発表、報告していたのでSMもその内容を知っていたが特に指導するようなことはなかったと思う。



留学報告会がAUSMIPを立ち上げた教授たち、第六期AUSMIP生、第七期AUSMIP生、興味のある人たちの間で開かれた。Aはともにドイツへ留学していたTA君とともにSMから幹事を任されていた。しかし、仕事の斡旋はTAに対するものが多く、AはSMに避けられていると感じた。
当日、他の国へ留学した学生の発表が長引き、SMはドイツ組が最後だったので発表時間を縮めるよう指示した。そのため、Aは思うような発表をすることがまたしてもできなかった。加えて精神状態も危ない状況だったのでますます発表はうまくいかなかった。しかし、その後に部屋を使うような予定もなく、SM自身も会場に残り、パーティーに参加していた。パーティーの席でAがSMに留学でお世話になった、これからもよろしくお願いいたしますというような内容のことを言ったが、SMは煙たそうにすぐにAから遠のいた。AはますますSMに避けられていると恐怖心を抱くようになっていった。
SMはそれまで病気(鬱病)のために酒を飲むことを禁じられていたようだが、この頃には禁止がとけたようで酒を飲んでいた。


SMは自分で研究室の研究テーマを作り、内外に発表しておきながら、実際の研究指導では、さく時間や個人的扱いが差別的に異なるように感じられた。他大学(早稲田大学)でも自分でインフラフリーに関して可能性があると言っていたらしい(早稲田大学の知り合いがSMの早稲田大学での授業を受けていてそれを2009年初旬頃に聞いた)。AはSMはインフラフリーに期待している、自分がその研究をすることで貢献できると留学中も帰国してからも思っていた。
また、大学院に入学する前から自分はASの研究テーマであるインフラフリーに興味があり、試験の面接の時、留学の試験の面接の時、奨学金の申請の時の推薦文(自分で自分の推薦文の原案を考えてSMに持っていき、SMは若干加筆修正するもののほぼその内容で指導教官推薦文として出す。奨学金を申請する時は毎回このような感じだった。)、その後も何度か自分の興味関心について話す機会があり、SMもミュンヘン工科大学のTB教授にAはインフラフリーに大変興味があるからよろしく、という内容の連絡をしていた。留学中もAは研究室にレポートとして簡単な発表資料を出したこともあり、SMはAの研究に対する興味関心や意欲については理解していたはずだった。
Aはお世話になっているSMへの恩もあるので研究に一層励もうと思っていた。

しかし、2009年にAが帰国してから徐々にインフラフリー全般に関して指導の熱意も扱いもあらゆるものが変わっていったように感じられた。自分が考えているような研究ができないならばできないとはっきり最初に言ってほしかった。

本来の自分を発揮できなくなっていく


7月のゼミでAが作った資料(ASに言われて春から作っていたインフラフリーに参考になるような技術を集めて分類し、エクセルにしたもの)を見てSMは、同席していた学生たちの前で、
「こんな資料を出すためにカラーを使って無駄だ」
という意味の発言をしたり、
「この資料はCさんにあげたらいいんじゃないか」
などということを言って、真面目に見ようとしなかったように感じた。Aが無能で研究に対しての意欲も見られないため、資料を真面目に見ようとしなかったとAは受け止めた。
また、この時のゼミか他の日のゼミで、就職について少しSMから話をかけてきた。
そこで迷っているようなことをAが話すと
「Aは日建設計に就職したいって言ってたけど、町工場に就職したりしてね。」
と笑いながら、周りの学生の笑いを誘うようなことを言った。
その時にかどうか思い出せないが、SMはさらに
「こいつに人生を教えてやってくれよ。Mさん、教えてやってくれないか」
と呆れたように、もう自分はお手上げだとでも言うように周りに対して言った。
できる限りSMとの距離を縮めたい、お世話になった分、研究で返していきたいと思っていたので、かなりひどいことを言われているのではないかととてもショックだったが、自分はそういうふうに言われることを今までにしてきてしまったのではないかと思った。


このころから精神状態が極度に不安定になり、考えや判断もうまくいかなくなっていった。自分にも自信をもつことはできなくなっていった。
同級生のU君らにも自分の状態がおかしいと言うようになっていった。
いつものそれまでの本来の自分を出す事ができなくなっていた。本来の自分がどのようなものなのか分からなくなっていき、その時の自分が本来の自分であるかのように思えてきた。
自分は一緒にいてもおもしろくもなく、楽しくもなく、ただ真面目なだけでその真面目さも人とのコミュニケーションで障壁になってしまう、この性格を変えられるならば変えたいと思っていた。
しかし、このようになるまでは、ドイツでも、それ以前も、人と交流する事を楽しんでいたし、それなりに自分の性格を肯定していた。コンプレックスは多少あったが、前に進めなくなるほど性格を否定することはなかった。中学の頃も学級委員にほとんど毎回推薦されたり、高専の頃も周りから頼りにされていたりしていた。それを嬉しくも思っていた。別にいい子になりたいと思った事もないし、嘘をつきたくてもつけない性格なので素のままの自分でこれまでずっと生きてきた。中学の頃から笑顔がいいと言われていたが、この頃は笑う事もできなければ、ひきつったような悲観的な顔だと言われるようになってしまった。秋に就活の説明会に行ったときもなぜそんな顔をしているのかとその時出会った人に言われたりもした。
それとあわせて就職に関しても行動する必要があり、コンペなどをして実績を残そうとしていた。しかし空回りすることが多くなっていった。
その他のことにも集中力が出なくなったり、ミスが多くなったり、考えがまとまらなくなったり、自分がおかしいと感じるようになっていった。


2009年のこのあたりから、何も手に付かなくなり、次第に今までお世話になってきたのに、自分は何もできなかった、感謝に報いることはできなかった、これからも何もできないんだと、強く思うようになっていった。


7月下旬にSMに研究や就職に関して相談した。また、精神的に混乱状態が続いている、眠れない日もある、動悸もするなどと精神状態も説明したが真剣に聞いてもらえたがどうかはわからない。少なくとも後の言動を見る限り理解していたとは思えない。
Aが精神的に不安定だと訴えても
「いい時期に入ってよかったんじゃないか」
と言われた。
自分を避けるような態度や暴言で精神的にますます落ち込んだ。相談する気力も失くしてしまった。
「南極にでも行ったらいいんじゃないか」
 Aの同級生たちに「Aが言うには設計で大切なのは技術らしいよ。分かってないね・・・」
「彼女でも作ったらいいんじゃないか」
ということも言われた。

何人かの学生とともにSMと昼食に向かい歩いているときに、AがSMと話をしようと近づくとわざと歩調を速めて避けた。

SMはAに対して、やる気や決断力がないから研究も就職も進まない、悩んでばかりだと思っているかのように感じられた。


6月末か7月に、都立大学在学時にコンペを一緒にやったりしていたKAさんとまたコンペをしようと自分から誘ってコンペを共同でやることになったのだが、うつで思考停止したり、話し合いの最中に突然居眠りのようになってしまい、起きていられなくなったりしていたので、KAさんに
「お前、いらない」
と言われるようになってしまった。


7月下旬に研究室旅行に参加
Aは最後の力を振り絞るようにSMとの距離を縮めようと話しかけようとしたが、そこでもSMはAを避ける言動をしているように感じられた。

助手に対する不信感と病気の発症


2009年6月3日?
AはASの自宅に招かれ、研究に関する工事の見学に参加し、またASと研究テーマについて話す。
ドイツで行っていた研究内容をそのまま日本ですることはできないと言われ、ASの怪しい一面も見る。
途中からトルコ人留学生の男性も来た。
AはASに数日前にどんな研究をやりたいのかまとめてもってきてと言われていたので、レポートとしてまとめたものを持ってきた。それについて企業の人達が来る前、そして帰った後にASと(企業の人達が帰った後はトルコ人留学生も含めて3人で)話し合った。
Aはあくまで建築としてのインフラフリーを研究したかったので、IF技術を盛り込んだ意匠的にも機能的にも快適性にも富んだ建築の研究開発をしたいと思っていた。それは学部生だった時にASと面談して、できる内容だと言われていたので、大学院でそのような研究をしたいと思って受験し大学院に入った。そしてその後もその方向で研究の準備や活動をしていた。しかし、2009年のその頃になって、それはできないと言いはじめ、インフラフリー技術を開発するために参考になるような技術をデータとしてまとめてそれを統計し的確な組み合わせを見つけるという研究をやったらいいのではとアドバイスされたが、すぐに納得できずにいると、ASは
「いいから、やれ」
というようなことを強い語気で言い放った。強い恐怖感と戸惑いを感じた。
その日から憂鬱な日が増していった。そして、徐々にAS自身とASの研究に対する違和感が大きく感じられるようになっていった。


2009年6月上旬
その後すぐのグループ研究会議で研究テーマを変えようとSMに相談し、一時的に研究テーマをASのインフラフリーから独自のテーマに変えた。しかし、今までずっとその研究の方向性で考えてきたし、奨学金の応募でもそれを書いてきたし、また、2008年にASの指導により助成金を申し込み受諾されていたのでその責任からも研究を続けた方がよいと思ったし、留学中もその関連の研究をしていたし、串本の調査も共同でやっていたし、そんなに簡単に割り切れるものではなかった。そして、新しい研究テーマと並行させて今まで通りASの研究活動にも参加を続けた。


6月頃だったと思うが、就職の話を聴きたいと思って同期の人から話を聴いていたが、その人は自分と同じように他大学から大学院に入ってきたのだが、就職がなかなか決まらずに困って当時就職担当だったSMに相談しに行ったそうだ。そうしたら、
「君は外部生(他大学から進学してきた学生)だから難しい」
というような話があったらしい。確かに外部から入った学生と内部から進学した学生ではいろんな面で違いが出て来るのは確かだと思うが、その人は何か差別されたように感じたと言っていた。


2009年7月
自分の性格やものの考え方が少しおかしいのではないか、社会に出る前に直せる部分は直した方がいいんじゃないかと思って、ふと大学の安田講堂内にある学生相談所に寄った。最初は軽い気分で相談してみようと思ったが、カウンセリング室に通され、カウンセラーと1対1で相談することになった。
その時はそこまで鬱状態はひどくなかったが、相談を何回か受けていると、自分の悪いところを意識的に認識してしまったのか、ますます鬱状態がひどくなっていった。
それから数日後か1、2週間後、本格的にうつ状態が強まり、研究も就職に関しても生活も何もすることができなくなっていった。布団から出るのも恐怖を感じるようになったり、就職用のものを見たり、エントリーシートを考えることもできなくなってしまった。
なんとか改善しようと大学のカウンセリングをまた何回か受けたが逆効果でますます症状がひどくなり、その担当のカウンセラーの人に薬を飲めば安定するから、大学内の精神科では薬を出す事はできないから、まずは大学内の精神科に行き事情を説明し診断書を書いてもらって、大学外の病院に行って薬をもらって飲むようにと言われた。
そして、安藤事務所へのインターンに出発する直前の8月初旬に本郷三丁目のクリニックに行き、薬(抗うつ剤と睡眠導入剤)をもらい、飲み始めた。


2009年から同じ研究テーマに取り組んだ同期のS君は最初の方は積極的に研究活動にも参加していたが、徐々に研究室に来なくなってきた。
2009年の秋頃までに知っていたのはASの研究に沿った研究テーマで研究をしていたが、論文を出したのかどうか今現在も連絡をとっていないので分からない。ゼミにもだんだんと来なくなっていたし、普段学校に来る事もかなり減った。

この研究室には同期の間にも不和があった。自分としてはみなと支障なく仲を保って研究室生活を送りたかったが、気に留めなくてもいいことに気を留めて人のことをなんだかんだと言ったり、どうやら故意に雰囲気を壊す人たちもいた。正直やりづらい雰囲気だった。東大に入ってまでこのような子供のような環境があるとは思わなかった。
先輩の話ではSMは人のプライベートな噂話が好きだと言っていた。気に入られるためにはネタがあった方がいい、というようなことも言っていた記憶がある。


ASから6月か7月に、文部科学省や大手ゼネコンと協力してインフラフリーモデル住宅の設計や実験をやろうとメールで誘いが来た。その日から決定的にうつ状態?になった。頭の血がさあっと引いていき、気が遠くなり、建設的に冷静に物事を考えることができなくなっていった。

瞑想の本を買って、雑念を払おうとしたり、同期の人が厄年だから神社でお祓いを受けたという話を聞いて、8月のゼミ合宿後すぐに藁にもすがるような思いで根津神社にお祓いに行って、なんとか態勢を立て直そうとするが、良くならなかった。

自分の考えや主張、やりたいこと、今まで考えていたことや夢、趣味、いろいろなことがぶれたり、関心が全くなくなったりした。建築に対しても関心を示す事ができなくなっていった。ただ脱線しないように自分を駆り立てることしかできなかった。
幽霊の存在や占いなど、以前までそれほど信じていなかったものを強く信じ込み、頭から離れなくなった。


ASがなんだか変だと感じたのが、2009年6月か、薄っすらとは4月に資料を渡されて調べておいてと言われた時からか。
4月になんとなく勘が働いたのか、本当にこの人は信用に足る人なのかと意識的ではなくなんとなく感じるようになった。
また、6月頃にセルカンカレッジに行った日から不信感、違和感がひどくなった。
そのセルカンカレッジというのは一回出るのに1万円を講習費として出す必要があるAS主催の講習であった。自分をはじめイタリア人のVや研究室の後輩も出ていたが、1万円も出してまで聴く価値のある講義だとは思わなかった。言っている事も当たっているような当たっていないような疑問点が多かった。金儲けの臭いがして不信感が強まった。

自分が精神的に本格的に追い込まれたのは、2009年6月か7月にASがプロジェクトをもちかけ、学生に話を進ませ、自分では全くと言っていいほど関わらず指導せず、自分は後輩と先輩の中でどのような立場、進め方をすればいいのか分からなくなったことが、精神的におかしくなった起爆剤の一つになったのは確かである。



ASがおかしく感じたのは、前に言ったこととその時に言っていることが大幅に変わる事が多かったこと、研究の話し合いで家に行った時に派手な服装を来て人に会いに行くという時に自分がそんな服も着るんですねというようなことを言ったらAにバカにされたというような変な態度、無理やり自分の意に沿う調査や論文をやらせようとした、それは自分が事前にできるかどうか聞いておいたこととあまりにも乖離したものだった、研究がどのくらい進んでいるのかどういう全体像でやっているのかほとんど分からなかったし聞いても妥当な答えが返って来なかった、それで自分は何ができるのか何をしたいのか分からなくなった、などたくさんある。