2013年5月26日日曜日

大学との話し合いに動き出す


2012年1月28日
SMから手紙が来た。アランの幸福論を読んでそれを参考にしているとあった。
休学届を出す時期にはSMから毎回短い手紙が来るがどれも社交辞令的な事務的な感じを受けた。大学で何があったのかなどは毎回何も書かれていなかった。

この時の休学届け(2012年4月から9月までの休学期間)は医者からの診断書をもらえたので病気という理由になったが、今まで出してきた休学届けは医者に行くことすらできなかったので診断書がなく、診断書が出せないと経済的理由でしか出せないと研究室側から書かれていた。本当は病気のために休学しているのになぜ経済的理由にしなければならないのかと、正直、納得できなかった。


2012年7月
ふとネットで調べていたら、大学がSMのことを処分する旨の発表を2012年2月に行っていた事を知った。
大学側から自分や研究室の他の学生宛に大学での事件について何があったか、どうしたか、などが若干書かれた手紙が2010年秋に来たらしいが、当時はとても見ることもできなかったので、開封したのは2011年2月か3月だった。この手紙には、この一件によりSM教授が学生を指導することができなくなったため研究室を変えてほしいとの内容が書いてあった。

Aがその人生の中で、人を殺したいと思った事は何度かあったが、いずれもその時の衝動的な一時の感情だった。しかし、今回の数々の事件でこれほどまでに社会的にも個人的にも許せない事があっていいのかと、その一人の人物に対して身も心も怒りに満ち、憎悪でいっぱいになり、ここに刀があったらすぐにでも斬ってやると長い間、思うほどの恨みを買った人物はいなかった。この恨みは念となり相手を苦しめる事になるかもしれないとだんだんと2012年になって思えるようになってきたが、それでもこの憎悪はなかなか小さくならなかった。
遺伝子というものは長い間の習慣化した記憶を保存している。Aの先祖に武士の血筋があるということは長い間、数百年か千数百年か分からないが、ひとたび刀をもったらその遺伝子が思い出し、人を斬る事は簡単にできてしまうかもしれない。実際に、母方の祖父はそれを警戒して刀を売ったそうだ。Aは昔から優しい、笑顔がいい、癒し系キャラ、おとなしい、など穏やかな性格に観られていたし、甘く見られることも多かった。自分でも穏やかな方だと思っていた。しかし、何か許せないくらい怒らせるものがあると、感情を抑えるのは難しい。武士は平時には穏やかだが、有事には人が変わるという話しがあるが、遺伝子がそうさせるのかもしれない。
普通の時はそんなことは起こりえないが、忍耐の限度を超えた時はいつその遺伝子が発動するか分からない。ということをその人物は知っておくべきだと思った。


2012年7月31日
研究室の秘書のKさんから姉の電話に、これからの手続きについての連絡があり、後日書類が送られてきた。
退学して半年経ってからまた再入学するか、それとも10月から復学するか、とのことだった。


2012年8月
このまま黙っていても誰のためにもならないのではないか、また、問題を抱えているとこれ以上自分の症状も改善しにくいのではないか、病状が回復するに従って感情も少しずつ落ち着き、少しはコントロールすることができるようになってきて、今まで憎しみを抱いてしまっていた相手がいたがその気持ちが小さくなってきたということもあり、今まで自分の記憶にある情報、調べた情報の中でのことなので当然考えには偏りもあるし、間違いもあるだろうから、相手方の意見を聴くこともしてなるべく平和的に建設的に解決したいと思い、また、自分のこの経験を生かせるならば大学の仕組みや環境が良くなるように自分にできることがあれば何かしたい、自分もいつまでもこの問題を抱えていると本当に疲れてしまうし、また多くの人に迷惑をかけるようなことはしたくないし、このままでは誰のためにもならないので早く問題を解決し前に進みたいと思い、大学の相談室に相談しようと思うようになり、8月の中旬に電話をかけて相談するに至った。


2012年9月下旬
SMから相談室経由で退学や復学に関しての案内があったが、退学届の理由には、一身上の理由と書くようにと書いてあった。個人的な理由で退学する、というようにさせたいという意図が感じられた。これまでの休学届の時も毎回、経済的理由と書くようにと書いてあった。制度的にそうしか書きようがないのかもしれないが納得がいかないことだった。

それから


2012年4月か5月に医者に病名を聞いたところ、
自己同一性障害
うつ状態
うつ不安障害
もう一つ思い出せないが全部で四つの病名だった。


2012年9月に聞いたところ、
うつ状態
うつ不安混合状態
適応障害
ということだった。


2009年頃から自分で把握、推測していた症状は
パニック障害
統合失調症もある。


自分でネットで2012年8月に調べたところによると、鬱病などの精神疾患はこれまで情報伝達物質の分泌異常によりその授受がうまく機能しないために様々な症状を引き起こすとされていたらしいが、東北大学名誉教授、総合南東北病院高次脳機能研究所の所長だった松沢大樹氏によると、海馬の先にある扁桃核という部分、乳幼児の頃から発達している脳の中でも原始的な部分で、快、不快、怒り、不安、恐怖など最も基本的な感情を司る部分が、強い精神的なショックで凹みのような傷がつくられ、海馬の萎縮などの影響も及ぼすそうだ。そうなると普段機能している前頭全野の働きも効かなくなり、そのため感情のコントロールがうまくいかなくなる、記憶すること、引き出す事がうまくできなくなるなど様々な症状を引き起こしてしまうらしい。

自分も今まで情報伝達物質だけが原因だとはずっと疑問だった。薬も医者も、製薬会社と医者との癒着もあるという話も聞きますます信用できなくなった。薬は偶然この症状に効用があると分かったというくらいの、副作用も危険なものなのではないかと2009年頃からだんだんと知っていった。
そのこともあり、自分は2012年1月以降、医者に通っているが薬は飲まないようにして、内面や良い刺激を増やすことで改善できるように心がけている。



高専の頃は15歳から寮生活をしていて、一年生の頃は体罰こそはなかったが厳しい全体指導が毎晩あり、挨拶、生活、時間の使い方などにも規則があり、ある保護者は子供がかわいそうで警察に訴えたこともあったが、自分としては、指導を与える人たちのためになるようにという考えがその指導にあって始めて厳しい指導も成り立つし、それらは自分たちのためになると思えたし、自分はそういう人を本当の意味で育てる教育は苦にならないが、現代社会に多い、個人的なストレスやわがままを反映しているかのような指導は自分のためになるとは思えず、不条理、疑問、憤り、戸惑いを感じることが多かった。



2012年から内科なども行ったが、そこで分かった症状で2009年以降の心身の病とそれによる不摂生な生活による症状として関係がありそうなものとして、不整脈が診断された。2009年の暮れから2011年年内頃までは脈が時々おかしく感じることが多かったり、緊張状態になるとかなり脈が乱れて一定のリズムの脈ではなかった。

また、2009年以降のことと関係があるかどうか分からないが、尿酸値が高いということも診断された。

2009年から2011年の春ころまで、あるいは最近も、生まれてこなければ良かったと思うことが頻度こそ変わってきたがあった。2011年春まではほぼ毎日思っていた。


2011年2月、3月あたりから、少しずつ、外に出る事、人と話す事、電車に乗る事など身近な事から徐々にリハビリを始めた。
そして、大学の問題をなるべく早く解決して、自分の道を進めるようにできることはなんでもしてきた。
普通の人から観れば普通に観えても、自分としては何をするにも必死だった。
2011年の夏を過ぎたあたりからか冬頃になってからか、徐々に生きる希望や自分や人を信じてみようと思えるようになってきた。しかしまだまだ本当に信じることはできなかった。
気持ちや考え方も徐々に変わることができるようになってきたと思う。
当初は医者も信じる事ができなかったが、2012年1月からようやく医者にも通えるようになった。一カ所だけだと偏ると思ったので二カ所行くことにした。


2011年2月から毎日記録をつけるようにして今もつけている。
その頃からずっと、できるならば早く解決して自分の道に進みたい、この経験を生かして前向きに建設的に自分にできることを社会に還元していきたい、大学で今回のような事件がもう起きないようにそれによって自分のような思いをする人が出ないように自分ができることはしたい、昔から思っていた社会に貢献できることを今の自分、これからの自分ができることをたとえ小さい事でも実践していきたいと思うようになっていった。

自分だけではなく、多くの人や企業、団体がASを信じて騙されていた。


2011年4月
これまでの間、奨学財団との連絡もとることができなかったため、返済猶予願いやレポートの提出などできないままになっていたものがある。
やっと連絡ができるようになり、日本学生支援機構に猶予願いを少し前に出していたが、行き違いになり、猶予願いも返済もしていないという状態と観られ、債権回収会社から督促の通知が来て、今後すみやかに返済しない場合はブラックリストにのせるというようなことも書かれていた。
このような通知でも相当な恐怖と憤りを感じた。
生活を再建する過程で、今まで連絡がとれなかったために生じた問題の結果、このようなことはそれ以後も何回もあった。

少しずつ外の世界へ


3月11日の地震があって、TAくんやKさん、HKさんからメールが来た。秘書のKさんから母の電話に大丈夫かと連絡が来て、母に無理やり代わられて仕方なしに出たが、研究室のメーリスで流してもいいかと聞かれどう対応すればいいのか、とっさに判断を下せないため(症状の一つで脳の働きが良くないので)、了承したところ児玉さんのメーリスで研究室の人たちに自分の無事を知らせる内容が配信された。元気そうでした、と書かれていたが、とても元気な状態ではなかった。
自分からその人たちに返信することはその当時も今も無理であったので、やむを得なくそのままにしてあった。返信した方がいいと何度も思って、下書きさえしていたが、出せなかった。メーリスを見て、KさんやTS先生、KF先生からは若干安堵するような内容が書かれた返信が他の内容とともに送られていたが、SMからはなかった。


2011年3月4日から5月下旬まで埼玉の母と妹の家にお世話になり、その後は大阪にいる姉のもとで2012年5月までお世話になった。その後は福島にいる父親のもとで8月上旬までお世話になった。
2011年3月以降、以前まであんなに後悔していたことが全く後悔しなくなった。実際、それまで後悔していたことは取るに足りないささいなことばかりだった。そのようなささいな事に対する後悔しか考える事ができなくなっていた異常な状態だった。
当然、変えるべき点も気づくべき点もたくさんあった。それらを一つ一つ点検し終えた後はすっきりしたような感覚だった。
しかし、その他の苦痛や体調の異常は少しずつ良くはなってきたとは言え、それからもずっと続いていた。認知行動療法にもなるかと思い、毎日記録している。


頻度こそ最初の頃からだんだんと少なくなっていったとは言え、埼玉でも大阪でも福島でも家族との衝突が何回も起きた。まだ感情をコントロールすることができなかったためだと思うが、非常に危険な状態になることが多かった。家族に向かって、
「自分を殺せ、殺してくれ」
と言ったりしたこともあった。
また、逆に、
「今度何かしたら殺してやる、殺すしかない」
ということも言った事がある。
その後で、やはり自分は精神病院に入院するしかないのではないかと何回も絶望的に思った。
震災の一週間前に埼玉に移っていたので助かったのだが、逆にあんなに多くの命が一瞬にしてなくなったのに、なぜ自分は生きているのだ、死ねなかったのだ、なぜ生きなければならないのかと何ヶ月間かそういう気持ちだった。
毎日、悲しいのか、なんなのか分からない感情があふれ、止めどもなく涙があふれた。家族が観ていないところではいつものように泣いていた。

つい最近になるまで、虚しさ、孤独感、恐怖、焦燥感、不安、悲しみ、憎しみ、怒り、絶望感などのマイナスの感情に満ち、楽しさ、歓び、感謝、心地よさなどのプラスの感情を大きく上回っていた。
ちょっとした反動で、明らかにそちらに非がある場合には、人を殺すくらい簡単にできるのではないかと思われるような危険な状態が多かった。脳が完全に何者かに乗っ取られているような感覚だった。自分でも自分が分からない状態だった。

外を歩くときも長い間、帽子、マスク、メガネやサングラス(視力は良いので伊達眼鏡)などをかけないと外に出れなかった。

罪業妄想が2009年6月末ごろから2011年2月まで強く出ていた。それ以降は少しずつ軽くなっていったが、5月ころまで感じていた。

貧困妄想が2009年秋から2011年2月ころまでずっとあった。実際奨学金が貯めてあったのでそこまで心配する必要のない時期にもうお金がなくなる、なんでこんなに多額の奨学金を借りてしまったのだと気が狂いながら後悔して恐怖感があった。

強い非現実的妄想が2009年秋から2011年2月頃まであった。過去に戻れるとか、これは現実じゃないとか。完全になくなっておらず、2012年9月現時点でも度々これは夢ではないのか、現実ではないのではないかと思うことがよくある。

突然考え方が変わった


2010年冬
夜に外に出て、家(寮)の敷地内から空を見上げ、星を見る日が何回かあった。流星群も見ていた。流星に向かってすがるように昔の安心だったころに戻れるようにと祈っていた。
この頃に家(寮)の談話室に地デジ対応のテレビがやってきた。そこでBSやCSなどの番組を見ることで、少しずつ気分が変わっていったようにも感じる。


2010年に浪江にいた頃も、2009年に駒込にいた頃も、死刑や飛び降りている人をテレビで見ると、いつか自分もこうなると恐怖にかられていた。


2011年2月初旬
いまだに自殺願望は続き、先を考えることはとてもできなかったが、ある頃から、この病になったのは自分にも性格的なものや育った環境などで多少の種はあったのかもしれないにせよ、本当の原因は実は自分の他にあったのではないかと思うようになった。もちろん、自分にも原因があるし、至らないところばかりだったからこうなったのだとずっと思っていたが、少しずつ、建設的なことを考えられるようになっていった。
今回の自分の場合、全て自分の過失なのか、それとも、大学側の過失が大きかったのか、考えるようになった。
自分は実は被害者でもあるのではないかと思うようになった。今までずっと自分を責め続けてきたので、これが現実であるならば、自分が悪いのだと信じていたが、そもそもの原因を記憶をたよりによく考えるようになっていった。
情報が得られないので、現在、どのようになっているか知ることができなかったが、姉からその頃に手紙が届いた。それによると、ASは処分され、SMの処分も大学側が検討しているとのことだった。やはり、そちら側が悪かったのではないか、それがなければ、自分は今このような状態になっていなかったと考え直すようになった。事実、2009年3月までドイツにいたころまでは、海外生活で生じる困難も、トラブルも苦に感じることも少なく、楽しく過ごしていたし、過去の自分を思い出しても結構前向きな性格だったのではないか、マイナス思考がプラス思考を上回ることはなかったのではないかと思うようになった。
しかし、この時もまだ自分自身を信じられない状態だったので、この考えが正しいのか、間違っているのか、本当の自分とはどのようなものだったのか、いまだ現実と非現実世界を行き来しているかのようだ。


2011年2月5日
この日から、これまでのいきさつや自分の状態、過去にあったSMやAS、大学側とのやり取り、これからの方針などを書きだすようになっていった。

2月6日
闘うのはやはり間違っているのではないか、自分にはできないのではないかなど、消極的な気持ちがこの日を支配していた。精神的な不安定さがまだ激しく、自分ではコントロールできない。

2月7日以降
闘いが終わった後の人生も少しずつ考えられるようになった。それとともに少しの希望も感じるようになっていった。

2月10日
母がSMから送られた手紙を見せてもらったが、そこには以前のように休学するのかどうかという内容、心配していたということ、自分の経験によると病院に行った方がいいということ、大学の事は心配しなくてもいいということ、焦らず無理をしないようにということが書かれたA4用紙一枚だった。また、研究室や大学で現在起きている内容、経過は書いておらず、姉から聞くまではAは大学で何が起きたのか何も知ることができなかった。姉はネットでたまたま観て教えてくれたそうだ。


SMから母に電話や手紙の内容
実家で医者に行きながら静養した方がいいのでは
大学は心配しなくてもいい(どんな意味だったのかは不明)
焦らずに無理しないように

実家に強制送還


2010年6月下旬
自分の口では自分のことを何も言えない状態が2009年からずっと続いていた。客観的に見ることもできない。主観的に行動することもできない状態が長く続いた。

それからは以前と同じで自分一人では何もできず、食事は備蓄してあった米を炊いて食べるくらいだった。
母はその様子を心配し、Aを浪江に連れて帰ることにした。それからAは父と母の三人で暮らすことになった。
家にいても何もできず、ほとんど布団に入っているかテレビを見るくらいしかできなかった。食事は食欲がないことも多かったが、我慢して少しは食べるようにしていた。
外には出る事はできなかった。
この頃から、浪江で、紙の切れ端や半紙、本の余白、写真などに「○○○に時を戻してください」と願いを必死で書くようになった。2月にヨーロッパへ渡る前から駒込などで書き始めていたが、一日中、起きている間はそのようなことを書き続けた。
千羽鶴も願いを書きながら千羽以上折った。
長い間、動かない生活が続いていたので筋力も低下し生きる力もますます減っていった。しかし、自分ではどうすることもできなかった。
絶望感、失望感、後悔、怒り、憎しみ、恐怖、不安が入り混じった感情だった。



2010年8月
SMから休学するかどうかについて手紙と休学届が来た。心配していたということを少し書いていたが、今研究室や大学がどうなっているかとか、ASの問題はなぜ起きたのか、というような内容は一切書いていなかった。正直に知らせてもらいたかった。そして、なぜそのようなことが起きてしまったのか手紙でもメールでも説明してほしかった。
しかし、そのころのFNの精神状態ではまた先生に迷惑をかけて申し訳ないという気持ちと、これは嘘だ、これは悪夢だ、いつかきっと目が覚めてもとの状態に戻れると信じていた。


正常な時は想像もしないようなことをしていた。
ある朝、頭を坊主にすれば過去に戻してくださるのではないかと思い、はさみで自ら髪を切って坊主にした。


2010年9月
母は埼玉に引っ越すことになり、Aは父と二人で暮らすことになった。
それから父とちょっとしたことで衝突したり、何も話すことなく沈黙した日々が過ぎて行った。
話す日があっても退行現象が現れ始めたくらいだった。


この頃、SMから(郵便を出しているのは毎回秘書の人だが)休学届を出した方がいいと手紙が来たが、休学届は医師の診断書がないと経済的理由としか出せないと書いてあった。以後も同じだった。この頃は何も思う気持ちもわかなかったが(感情がなくなっていた)、その後、大阪にいる時に来た時は納得がいかなく、本当は病気で休学届をやむを得ず出していると書いた。


2010年秋
家から一歩も出られない日々が続き、何もできず地獄のような日々だった。台所用洗剤や洗濯用洗剤、風呂場用洗剤などを混合させて死ぬか、包丁で刺すか、など自殺願望は2009年からずっとあった。生きている方がよほど怖かった。
以前から書きためていた願いごとの紙に加えて、絵を描いたり、習字をして、過去に戻してくれるよう願いを藁にもすがるような思いで書くようになった。

電話を受け取ることも、外に出ることもできない。連絡をとることもできない。現実を見ることもできない。
いつしかAはいつか自分は警察に連れて行かれるのではないかと思うようになった。奨学金を返済できずに、何もできずに何の罪になるのか分からないが、捕まるのではないか、誰かに連れて行かれるのではないかという脅迫観念のようなものがあった。


Aはずっと長い間、このような不幸な家庭になったのは自分のせい、そして父親のせいだと思い詰め、ふとしたきっかけで怒り狂い、父親に
「お前のせいでうちの家族はこんなふうになってしまったんだ。反省しろ。責任をとって死ね。お前が死んだら俺も死ぬ。」
というような内容のことを言いながら、父親を何回も殴った(ちょっとしたことがきっかけで口論になり、父親が先に攻撃してきたので正当防衛だったが)。この時のけんかで右手小指の骨が曲がったのかずれたのか、現時点でもまだ力を入れないと揃わない。当時は大きく腫れ上がり痛かった。
Aが父親に言った内容のことは2009年冬からずっと思っていた。メールで一度父親にそのようなことを送ったこともある。

もう自分と他人のせいにするしかできなかった。

日本に帰って来るが・・・


2010年春
その後は、母と妹が浪江に帰って、Aは一人東京で過ごすことになった。しかし、外に出ることもできず、学校にも行けず、ずっと部屋に引きこもる状態が続いた。

春になると妹が仕事のために上京してきた。最初のうちは母も一緒に暮らした。
その後、妹と二人で暮らすようになった。

そのころに研究室のKM先輩とTA君が家に来てくれた。SMが医者に行くように駒込の近くの医者を探してくれたそうだ。それと研究室には休学しててもいつでも来れるから来れるようになったら来なさいと言っていたそうだ。しかし、医者はおろか外にも出る気力や勇気も出ず、家族の支援や理解も核心まで届かず、それ以前に医者や薬も信用できなくなっていた。それ以上に、この現実が信じられなかった。

その前後にAはASが大学側に懲戒処分されたことを知る。

Aは怒り狂いながらAS関係の本や資料を破り捨てる。しかし、何も変わらなかった。捨てることによって過去へ戻れると信じて捨てた。もう完全に気が狂っていた。


駒込、浪江にいた頃は、本当に毎日、いつも、地獄のような感じだった。
苦しみ悶えて、じたばたして、手足をこすり、目の下は痙攣し、脈は乱れ、呼吸も乱れ、夜は眠れず昼も眠れず、頭は押さえつけられているようにしめつけられているように痛く、誰にも頼れず、自分も信じられず、その瞬間を生きていること自体が苦痛過ぎて死にたいとずっと思っているような日々。まさにこれを地獄と言わないでなんと言えばいいか分からないような日々だった。まさに高い所から落下しているのを体感しているような感じだった。すぐにでも床が抜けてさらなる地獄へ落とされるのではないかと思えるほどだった。


自分は今までの人生で、それなりの自信をもって自分を肯定していたが、病になり、簡単な、小学生でもできるような問題もできなくなり、新しく覚えることなどほとんどできなくなり、パニックになり、自信を極度になくした。


うちの家庭は基本的にいい意味での自由、放任主義で、経済的にもあまり余裕のない家庭だったが、その御陰もあり自分は向上心、向学心を培うことができたという部分もあり、親はそんなに自分に対して期待はしていないようにも観えていたが、それでもこういう状況になって何もできなくなった自分を観て、ひどく悲しんだ様子だということが察することができる。自分は長男で他に男の兄弟がいないため、自分には将来、親を世話する仕事もあると子供の頃から少しずつ考えてはいたが、このようになって迷惑と世話をかけることしかできなくなり、申し訳ない気持ちとやるせない気持ちでいっぱいだった。

オーロラを観て・・・


2010年2月上旬
母と妹が再び東京に行くのでそれにあわせてAも東京に帰ることにした。なんとか電車やバスに乗ることができた。

母と妹が東京から浪江に帰った数日後に、今度こそはオーロラが見える寒い土地で凍死しようとフィンランドへ飛び立った。成田空港から最低限の荷物をバックに詰めてヘルシンキ空港までの便に乗った。ヘルシンキから夜の電車でロヴァニエミの先の駅まで乗った。翌朝に着き、そこから歩いて隣町までの道で倒れてそのまま凍死しようとした。一日中歩き暗くなり大型トレーラートラックなどが行きかう国道のような道を歩いていたが、なかなか力尽きないので自分から雪の中に倒れこんだ。そうしていると、ある車が止まり、Aを保護し家に泊めさせてくれた。英語が通じなかったが、やさしくしてくれた。一瞬我に返る瞬間もあったが、そうなると余計に怖くなってしまった。

その翌朝、隣町に行き、再び凍死できそうな場所をさまよい歩いて探した。なかなかないので夜にバスでロヴァニエミに帰ることにした。寒くて、虚しくて何をしているのか分からなかった。司馬遼太郎の「人間とは」という本と新渡戸稲造の「武士道」の二冊を持ち歩いていた。

ロヴァニエミからヘルシンキまで戻り、ひとまずユースホテルに泊まった。その晩から飲まず食わずで餓死しようと計画を改めた。本を読んだりして一日中ほとんどホテルの中で過ごした。何日泊まっていたかは覚えていない。5日以上水も飲まなければ死ねるという情報があったので、その通りになるまで待っていたが、空腹感は通り過ぎたがのどの渇きは一向に止まらなかった。水を飲まずホテルのサウナで汗を出し、ふらふらになりながら死を待っていたが、実現できなかった。ついにのどの渇きを我慢できずに5日たったころに飲み物を買ってしまった。餓死計画もできず、ますます絶望感を強めヘルシンキの街をあてもなくさまよい歩き、教会の塔に登ろうとしたり、凍った川に飛び込もうとしたりした。

その後、ホテルを変えた。本棚になぜか「嫌われ松子の一生」という普通に日本語での本が置いてあった。なぜかその本から気が離れなくなり、寝ないままずっと読み続けた。ささいなことから職場や実家、故郷から追われた松子、だんだんと崩壊していく人生、ふとしたところから人の人生は壊れていく、人から嫌われ迷惑をかけ、最後には浮浪者のようになり少年たちの暴力で不遇な一生を終える。
なんだか今までとこれからの自分のことを書かれている気がしてますます怖くなった。自分はこの先自殺するか自殺できなかったら浮浪者になっていつか死ぬのだろうと頭をよぎった。ヘルシンキでアルコールを買って泥酔して雪の中で埋もれようとか、ナイフか包丁を買って刺そうとか、考えたがどうすればいいのか分からなくなって、ヘルシンキ発ストックホルム着の船に乗ることにした。その船から凍てつく海へ飛び込もうと準備をした。しかし、実際甲板に立ってみるとなかなか飛び込むことはできなかった。ついにそのままストックホルムに着いた後、バスで市内を回り死に場所を探していた。その晩は教会に行ってユースホステルに泊まった。
次の日もバスで市内を回った。その次の日だったかいつだったかはっきり覚えていないが、ストックホルム郊外の島に面した凍った海沿いを歩き人気のないところへ進んだ。トンネルのようなちょうどいい場所があったのでそこで横になってそのまま心臓が止まるまで待とうとした。しかし、なかなか死なないので、海に飛び込むことにした。何十センチもの厚い氷になった凍った海の氷とまだ水の境まで進むと迷いもなく飛び込んだ。何回も這い上がっては飛び込んだ。しかし、最後まで沈むことはできなかった。死ぬことが怖かったのか、未練があったのか、水の中に死ぬことはできなかった。トンネルに戻り凍死するまで待った。しかし、死ねなかった。本当は死にたくはなかったのだ。やり直したかったのだ。なぜこのような状態になってしまったのか分からず、今までの人生を後悔し、楽しかった、あたたかかった昔を思い出してたまらなく悲しかった。

朝が近づいたのでそこでの自殺はあきらめ、ストックホルムまで戻ることにした。途中、民家を訪ねて体を温めてもらおうとした。尋常ではなかった。朝の4時か5時ころだった。何件かあたってようやく出てくれた家の人は体を温め、軽い食事も与えてくれた。そして駅までのタクシー代も払ってくれた。その時自分は乞食のような死人のようなもはや何をしているのかもわからなかった。人の優しさもその時の自分には届きそうで届かなかった。迷惑をかけているのは分かってもどうすればいいのか全く分からなかった。ストックホルム駅に戻るとシャワーを浴び体を温めた。足先と手の先が凍傷になっていた(この凍傷は足の部分はほとんど治ったが、手の爪はいまだに二枚爪になったりはがれやすい。2012.9.12現在)

駅で呆然としていたが、ここにずっといても死ねないと思い、電車でドイツを目指すことにした。ストックホルムからコペンハーゲンを経由しドイツへ入った。そこからどこへ行ったのか覚えていないが、コブレンツに行ったのか他の街か。

コブレンツは18歳の時に訪れた街だった。そのころに戻りたいとライン川とモーゼル川の合流地点に立つモニュメントで呆然としていた。そこで川に飛び込もうかと考えていた。川に流されていつか海に行きつくかと想像した。しかし、やはり死ぬことはできず、コブレンツから電車に乗った。そこからどこへ行ったのか覚えていない。
ミュンヘンに行ったのか、ニュルンベルクに行ったのか。その後ミュンヘンのホテルに泊まった。ミュンヘン、ニュルンベルク、リンダウ、インスブルック、その近くの村などを巡って死に場所を探した。インスブルックの近くの村では山に登り泥酔したところで崖から飛び降りようとした。それなら一瞬で終わると思った。しかし、冬なのでその山には登ることはできないと言われ、また途中まで行くバスも見つからず、自力でその山をふもとから登る気力も出ずに断念した。
また別の町では鉄塔に登り、飛び降りようと思ったり、冷たい川に飛び込んだまま流されようと思った。実際、川には何回か飛び込んだが死ねなかった。

その後とぼとぼ濡れたまま歩いていると中年の女性が通りかかり車を止めてどこに行くのか、と尋ねてきた。本当はどこに行けばいいのかこっちが聞きたいくらいだったが、宿を探していると言ったら車に乗せてくれて宿を一緒に探してくれた。しかし小さな村だったのでなかなか見つからなかった。仕方なく駅に戻り電車を待ってミュンヘンに行った方がいいと言うことになり、途中でマクドナルドで食料まで買ってくれた。

かなり情けないことだと思ったが、人の親切を断る力もなかったのでそのままもらって駅で待つことにした。そこに黒人系の男性がいてその人に女性が電車が車で一緒に待ってくれというようなことを説明した。女性が帰って違う人が来た時にその男性はAのことを馬鹿にしているような感じで何かドイツ語?で言っていた。もう何がなんだか分からなかった。女性がくれた毛布にくるまって電車を待っていた。
翌朝、そこからまたミュンヘンに戻り、郊外に行き電車に飛び込もうとしたができなかった。パスポートは直前にどこかに捨てて身元が発見されないようにして、死のうとした。それも実現せずにザルツブルクへ再び行き、ホテルに泊まった。その次の晩にインターネットでメールを久々に確認した。すると友人O君が捜索願いを出そうかとしているのを知り、それはやめてくれと我に返った。母と連絡を取り、日本に帰ることを決意し、飛行機を予約した。もうどうしたらいいのか分からないが、その時にできることは死ぬか日本に帰るかの二つに一つだった。

その次の日か数日後にミュンヘンから東京に帰るためミュンヘン発イタリア経由の成田着の飛行機に乗ることにした。空港で足の凍傷をなんとかしたほうがいいのかと思って、空港の診療所へ行った。診てもらったら医者に病院行かないと危険だと言われてミュンヘン市内の別の病院へ救急車で搬送された。そこで処置されて一晩入院した。相部屋になったのは高齢者だった。初めての入院体験だった。その翌朝に病院を発ってタクシーで空港まで行った。
イタリアを経由して東京へ帰ってきた。東京には母と妹が待っていた。父にも電話で帰国したことを伝えた。


もう現実がいったいどれなのかわからなくなっていた。
自分は犯罪者、罪深い者なんだと強く思い込んでいた。
過去の自分のここが、こういうところが悪かった、こうしたから、こうしなかったから、今このようになってしまったのだと非常に気が狂ったように自己嫌悪と自責の念にとらわれ、自殺行為、自傷行為を止められなかった。
死ぬ事で過去に戻れるとしか考える事はできなかった。


ヨーロッパに行っている間、
SMか研究室の誰かから電話が来て、

母は駒込に行って、

次の週か次の次の週に父は駒込に行って、

TAくんからも電話が何回か来て、

SMから捜索願を出した方がいいのではと電話が来て、

KOくんからもメールで捜索願を出そうか考えていると入っていた



2010年の春ころか2月の駒込に一時帰った時か、記憶が曖昧になっているが、NHKの大河ドラマ「龍馬伝」を見ていた時、今まで自分は社会に貢献できるようにと頑張ってきたつもりだったのに、もう自分は国のためにも家族のためにもほかの人たちのためにも何もできないと、ただ人に迷惑をかけ害になる人間でしかなかったのだと、自分とこの境遇に対する憤りで、食事をしながらテーブルを強く叩き、穴を何カ所も開けた。

また、髪の毛、髭はぼうぼうと乱れ、自己管理をすることもできなくなっていた。誰にも観られたくない姿であった。