2010年2月上旬
母と妹が再び東京に行くのでそれにあわせてAも東京に帰ることにした。なんとか電車やバスに乗ることができた。
母と妹が東京から浪江に帰った数日後に、今度こそはオーロラが見える寒い土地で凍死しようとフィンランドへ飛び立った。成田空港から最低限の荷物をバックに詰めてヘルシンキ空港までの便に乗った。ヘルシンキから夜の電車でロヴァニエミの先の駅まで乗った。翌朝に着き、そこから歩いて隣町までの道で倒れてそのまま凍死しようとした。一日中歩き暗くなり大型トレーラートラックなどが行きかう国道のような道を歩いていたが、なかなか力尽きないので自分から雪の中に倒れこんだ。そうしていると、ある車が止まり、Aを保護し家に泊めさせてくれた。英語が通じなかったが、やさしくしてくれた。一瞬我に返る瞬間もあったが、そうなると余計に怖くなってしまった。
その翌朝、隣町に行き、再び凍死できそうな場所をさまよい歩いて探した。なかなかないので夜にバスでロヴァニエミに帰ることにした。寒くて、虚しくて何をしているのか分からなかった。司馬遼太郎の「人間とは」という本と新渡戸稲造の「武士道」の二冊を持ち歩いていた。
ロヴァニエミからヘルシンキまで戻り、ひとまずユースホテルに泊まった。その晩から飲まず食わずで餓死しようと計画を改めた。本を読んだりして一日中ほとんどホテルの中で過ごした。何日泊まっていたかは覚えていない。5日以上水も飲まなければ死ねるという情報があったので、その通りになるまで待っていたが、空腹感は通り過ぎたがのどの渇きは一向に止まらなかった。水を飲まずホテルのサウナで汗を出し、ふらふらになりながら死を待っていたが、実現できなかった。ついにのどの渇きを我慢できずに5日たったころに飲み物を買ってしまった。餓死計画もできず、ますます絶望感を強めヘルシンキの街をあてもなくさまよい歩き、教会の塔に登ろうとしたり、凍った川に飛び込もうとしたりした。
その後、ホテルを変えた。本棚になぜか「嫌われ松子の一生」という普通に日本語での本が置いてあった。なぜかその本から気が離れなくなり、寝ないままずっと読み続けた。ささいなことから職場や実家、故郷から追われた松子、だんだんと崩壊していく人生、ふとしたところから人の人生は壊れていく、人から嫌われ迷惑をかけ、最後には浮浪者のようになり少年たちの暴力で不遇な一生を終える。
なんだか今までとこれからの自分のことを書かれている気がしてますます怖くなった。自分はこの先自殺するか自殺できなかったら浮浪者になっていつか死ぬのだろうと頭をよぎった。ヘルシンキでアルコールを買って泥酔して雪の中で埋もれようとか、ナイフか包丁を買って刺そうとか、考えたがどうすればいいのか分からなくなって、ヘルシンキ発ストックホルム着の船に乗ることにした。その船から凍てつく海へ飛び込もうと準備をした。しかし、実際甲板に立ってみるとなかなか飛び込むことはできなかった。ついにそのままストックホルムに着いた後、バスで市内を回り死に場所を探していた。その晩は教会に行ってユースホステルに泊まった。
次の日もバスで市内を回った。その次の日だったかいつだったかはっきり覚えていないが、ストックホルム郊外の島に面した凍った海沿いを歩き人気のないところへ進んだ。トンネルのようなちょうどいい場所があったのでそこで横になってそのまま心臓が止まるまで待とうとした。しかし、なかなか死なないので、海に飛び込むことにした。何十センチもの厚い氷になった凍った海の氷とまだ水の境まで進むと迷いもなく飛び込んだ。何回も這い上がっては飛び込んだ。しかし、最後まで沈むことはできなかった。死ぬことが怖かったのか、未練があったのか、水の中に死ぬことはできなかった。トンネルに戻り凍死するまで待った。しかし、死ねなかった。本当は死にたくはなかったのだ。やり直したかったのだ。なぜこのような状態になってしまったのか分からず、今までの人生を後悔し、楽しかった、あたたかかった昔を思い出してたまらなく悲しかった。
朝が近づいたのでそこでの自殺はあきらめ、ストックホルムまで戻ることにした。途中、民家を訪ねて体を温めてもらおうとした。尋常ではなかった。朝の4時か5時ころだった。何件かあたってようやく出てくれた家の人は体を温め、軽い食事も与えてくれた。そして駅までのタクシー代も払ってくれた。その時自分は乞食のような死人のようなもはや何をしているのかもわからなかった。人の優しさもその時の自分には届きそうで届かなかった。迷惑をかけているのは分かってもどうすればいいのか全く分からなかった。ストックホルム駅に戻るとシャワーを浴び体を温めた。足先と手の先が凍傷になっていた(この凍傷は足の部分はほとんど治ったが、手の爪はいまだに二枚爪になったりはがれやすい。2012.9.12現在)
駅で呆然としていたが、ここにずっといても死ねないと思い、電車でドイツを目指すことにした。ストックホルムからコペンハーゲンを経由しドイツへ入った。そこからどこへ行ったのか覚えていないが、コブレンツに行ったのか他の街か。
コブレンツは18歳の時に訪れた街だった。そのころに戻りたいとライン川とモーゼル川の合流地点に立つモニュメントで呆然としていた。そこで川に飛び込もうかと考えていた。川に流されていつか海に行きつくかと想像した。しかし、やはり死ぬことはできず、コブレンツから電車に乗った。そこからどこへ行ったのか覚えていない。
ミュンヘンに行ったのか、ニュルンベルクに行ったのか。その後ミュンヘンのホテルに泊まった。ミュンヘン、ニュルンベルク、リンダウ、インスブルック、その近くの村などを巡って死に場所を探した。インスブルックの近くの村では山に登り泥酔したところで崖から飛び降りようとした。それなら一瞬で終わると思った。しかし、冬なのでその山には登ることはできないと言われ、また途中まで行くバスも見つからず、自力でその山をふもとから登る気力も出ずに断念した。
また別の町では鉄塔に登り、飛び降りようと思ったり、冷たい川に飛び込んだまま流されようと思った。実際、川には何回か飛び込んだが死ねなかった。
その後とぼとぼ濡れたまま歩いていると中年の女性が通りかかり車を止めてどこに行くのか、と尋ねてきた。本当はどこに行けばいいのかこっちが聞きたいくらいだったが、宿を探していると言ったら車に乗せてくれて宿を一緒に探してくれた。しかし小さな村だったのでなかなか見つからなかった。仕方なく駅に戻り電車を待ってミュンヘンに行った方がいいと言うことになり、途中でマクドナルドで食料まで買ってくれた。
かなり情けないことだと思ったが、人の親切を断る力もなかったのでそのままもらって駅で待つことにした。そこに黒人系の男性がいてその人に女性が電車が車で一緒に待ってくれというようなことを説明した。女性が帰って違う人が来た時にその男性はAのことを馬鹿にしているような感じで何かドイツ語?で言っていた。もう何がなんだか分からなかった。女性がくれた毛布にくるまって電車を待っていた。
翌朝、そこからまたミュンヘンに戻り、郊外に行き電車に飛び込もうとしたができなかった。パスポートは直前にどこかに捨てて身元が発見されないようにして、死のうとした。それも実現せずにザルツブルクへ再び行き、ホテルに泊まった。その次の晩にインターネットでメールを久々に確認した。すると友人O君が捜索願いを出そうかとしているのを知り、それはやめてくれと我に返った。母と連絡を取り、日本に帰ることを決意し、飛行機を予約した。もうどうしたらいいのか分からないが、その時にできることは死ぬか日本に帰るかの二つに一つだった。
その次の日か数日後にミュンヘンから東京に帰るためミュンヘン発イタリア経由の成田着の飛行機に乗ることにした。空港で足の凍傷をなんとかしたほうがいいのかと思って、空港の診療所へ行った。診てもらったら医者に病院行かないと危険だと言われてミュンヘン市内の別の病院へ救急車で搬送された。そこで処置されて一晩入院した。相部屋になったのは高齢者だった。初めての入院体験だった。その翌朝に病院を発ってタクシーで空港まで行った。
イタリアを経由して東京へ帰ってきた。東京には母と妹が待っていた。父にも電話で帰国したことを伝えた。
もう現実がいったいどれなのかわからなくなっていた。
自分は犯罪者、罪深い者なんだと強く思い込んでいた。
過去の自分のここが、こういうところが悪かった、こうしたから、こうしなかったから、今このようになってしまったのだと非常に気が狂ったように自己嫌悪と自責の念にとらわれ、自殺行為、自傷行為を止められなかった。
死ぬ事で過去に戻れるとしか考える事はできなかった。
ヨーロッパに行っている間、
SMか研究室の誰かから電話が来て、
母は駒込に行って、
次の週か次の次の週に父は駒込に行って、
TAくんからも電話が何回か来て、
SMから捜索願を出した方がいいのではと電話が来て、
KOくんからもメールで捜索願を出そうか考えていると入っていた
2010年の春ころか2月の駒込に一時帰った時か、記憶が曖昧になっているが、NHKの大河ドラマ「龍馬伝」を見ていた時、今まで自分は社会に貢献できるようにと頑張ってきたつもりだったのに、もう自分は国のためにも家族のためにもほかの人たちのためにも何もできないと、ただ人に迷惑をかけ害になる人間でしかなかったのだと、自分とこの境遇に対する憤りで、食事をしながらテーブルを強く叩き、穴を何カ所も開けた。
また、髪の毛、髭はぼうぼうと乱れ、自己管理をすることもできなくなっていた。誰にも観られたくない姿であった。