2013年5月26日日曜日

教授に対する不信感


このころ5月に同級生から安藤忠雄事務所でのインターンの話をもらい、夏に行けるよう頼む。本当は夏休み前にインターンに行き就職の判断材料にしたかったが、SMに止められ8月からになった。他の研究室では夏休みなどの長期休暇以外でも指導教員の判断でインターンに行くことは可能らしい(千葉研の韓国人留学生は6月頃に行っていた)。登録していた授業はSMの授業だけでほかには受けてなかったので、SMがいいと言えば行けたのでその当時は残念に思った。

4月か5月のSMの授業で、SMは受講している学生たちにこれから建築業界は危ないから、ITとか他の業種に移った方がいいかもしれないとはっきり言っていた。しかし、その年の秋に、Aが就職に対して精神が混乱状態の中、リーマンショック後の不景気でますます低迷する建築界にこのまま残っていていいのだろうかという不安が浮かんできて他の業種を探ろうとしていると聞くと、建設業界に文句をつけるな、悲観的に考えるなというような発言を他の同期と一緒にバルコニーで話していた時にAに言った。余計に当時のAは混乱した。


5月下旬にメールでやり取りした際にSMから
「日本人は昔から腹をくくることを大事にしてきました」
というアドバイスをもらったことがある。
しかしASに対する不信感がだんだんと強くなり、研究と進路の考えが余計にまとまらなくなり、腹をくくるにもくくれない状態になっていた。
帰国するまでは研究に関しては大学院に進学してからずっと一貫して同じテーマで考えてきたが、それができないのではないかという不安が強くなってきていた。就職も研究に連動して考えていたのでどちらも出口のない迷いの中に入ってしまった。
現在(2013年3月)になっても、SMは自分がASの事件の根本の原因を作り出し、その責任があるにも関わらず、謝罪どころか悪いとも思っていないようだ。
その根性があきれてものも言えない。


いつ頃かよく覚えていないが、SMは自身の授業か会議の時に、今の最大手ゼネコン5社(鹿島、大林、清水、竹中、大成)のうち3社はうちの研究室出身だと自慢するように言っていたが、おそらく内田研究室の出身である。なぜならば年齢的につじつまがあわないからだ。それを自分の業績のように言う態度はおかしいと感じた。そういう癖をASが観てまねをするようになったのではないか?
Aは同じ内田研究室の出身である東京都立大学のSF先生に師事したが、先生は内田先生のことを誇らしく語っていた。日本建築学会会長、東京大学第14代総長などを歴任され、安田講堂、総合図書館はじめ東大本郷キャンパスの主な建物のほとんどを設計され、1972年には文化勲章を受賞された内田祥三先生、その子で、東京大学名誉教授、元日本建築学会会長を歴任された内田祥哉先生と、現代の日本の建築界に大きな影響を与えて来た研究室の流れをくむSF研究室、SM研究室に入れた事はAにとって大きな誇りだった。その内田研究室の名を大きく傷つけたことは大変遺憾である。


2009年5月28日
Aは帰国後も研究活動を軌道にのせるために懸命に動き、研究テーマをこの日のゼミで発表した。しかし、ここにSMはおらず(研究室会議はSM、またはS教授、F准教授の都合で研究室会議を決めていて、この全体会議は週に一回で発表者は二人ずつ。この全体会議で学生が発表できるのは年に2回か3回しかない。)、4月にこの日に見るからと自分で言ったにもかかわらず、AはSMの指導を仰ぐことができなかった。また、他の先生も都合が悪くていなかった。

この頃からだんだんと必要以上に他人の言動や自分のささいな失敗などに気にかかり、それが頭を離れなくなる。

和歌山県串本町に研究調査に行く


2009年5月中旬
ASとその研究に関心のある学生(先輩二名、同輩一名、、後輩二名とA)が和歌山県串本町に研究調査に行った。大学名を出しての公式の調査であった。新聞記者も取材に来た。私たちは新聞の写真にものったし、町内放送でこれから調査を行うので協力お願いします、という町側の協力もあった。
ASはこの町でトルコ親善大使を務めていた。
串本町もASの経歴や研究で串本町に貢献することなどを信じて調査に協力してくれていた。

しかし、串本で何をするのかプロジェクトの概要、通夜島にモニュメントのようなものをつくるとか、大島にインフラフリー住宅をつくるだとか、色々ASは考えていたのかどうか分からないが、結局のところ何をしたいのかよく分からないまま調査に行った。自分も帰国後すぐの突然な話だったので串本で何かをしたいのか、何かできるのか自分自身でもよく分からなかった。何かを実際につくるか提案するところまでできれば研究をする本望だとも言えるが、それでも調査後になぜか乗り気になれなかった。いや、何かをつくるとか提案するということをASはほのめかして実際は調査やデータをまとめる下働きを学生にやらせようとしているとも当時感じた。4月にも、6月にも、データをまとめるようにと自分に迫ってきた。結構強い言い方だった。夏や秋には、GCOEプロジェクトを始める時はまた何かをつくれるから、ヨーロッパに調査旅行に行けるからと誘いかけてきた。実際は何かをつくらせる気もなかったのだろう。人の労苦を利用しようとしていただけなのだろう。2007年に何かをつくる段階に入っていると言っていたにも関わらずそこまで実際に何も作っていないし、作る段階にもなっていなかったし、作る実質的な実績も力もコネも金もなかったからだ。
研究しているかのように見せて外部に入り込むための資料をつくるために学生を動かしていただけなのではないだろうか。文部科学省や経済産業省、JAXA、大手ゼネコン、銀行、電気製品メーカーなど出入りしていた会社、組織は多い。そこから情報を引き出すということが最大の目的だったのではないかとも十分考えられる。

以上のように、自分はインフラフリー建築を提案しそれをつくることができるというASの言葉を信じて大学院に入った、しかしいつまでたっても空想のものしかできない、ついにはデータをまとめるというような希望していたものとかなり違うものをやらせようとされた。データをまとめるのは必要だが、そんなことをしに大学院に入ったのではない。大望、志のない者ならば卒業するために論文を書く、そのために必要だから興味がそんなになくてもやる、ということをできるのだろうが、自分はそれとはかなり違う方向を向いていたから、すぐに従うことはできなかった。データをまとめるように努力したが、なかなか気力が持続せず気落ちばかりしていた。

帰国後

2009年4月
帰国して直後、留学報告を兼ねて資料を作り、研究室のグループ発表に出たが、SMは時間がないから今度の5月28日にある研究室会議のときでいいとAの進言を断る。その予定されていた5月28日の会議にSMは別の用事があると出席しなかった。
7月の留学報告会当日も時間を理由にAの発表を短くするように言ってきた。何回も発表の機会を妨げて自分の発表を聞きたくないかのように感じられ、自分が何か気に障るようなことをしたり言ったりしたのではないかと不安に思い混乱し、自分の2008年以降の態度が悪かったのではないかと後悔を強めていった。


別の日、研究室のガラステーブルでSMが時間が余ったからと自分に就職について話かけてきた時に、Aが海外留学についても考えていると話したら、SMは「まだ学ぶのですか?」と言った。
また、研究職も考えていると言うと、
「研究で生活するためには、3度の飯より研究のことが好きくらいじゃないとできない」
というようなことも言っていた。

しようと思えば卒業できるのだから社会情勢を考えても就職した方がいいと、自分のことを思ってのアドバイスであったと思ったが、就職の時期については留学する前までは卒業をのばさずに2010年3月に卒業する考えでいたが、Ausmipに参加してきた先輩の話を聞いても卒業を一年のばす人は多く、自分も将来考えられる選択肢が広くなって色々と考えたかったのだが、将来について考えていることをあまり良くは考えていないようにも感じられた。確かに社会情勢も荒れる中、悠長に考えている時間はなかったが、留学期間が7か月間で帰国してすぐに将来の進路を決定し就職活動をするということが難しく感じられた。


自分は昔から海外に出れるならば出てみたいという志向だったので、せっかく留学していい感触を得たのでもう一度留学かインターンか何かしてまた海外に出て生活したいと思っていた。
留学中、設計課題はドイツ人学生も留学生も多い中、自分は上から二番目の成績をおさめた。特段たいしたことでもないし、自分にはそこまでの設計の才能があるとは思っていなかったが、日本ではあまり設計の評価は高くなかったから認められたような気がして嬉しかった。Lさんには、自分が前から憧れていた設計事務所であるスイスのHerzog & de Meuron事務所に行けるんじゃないかと言われ、チャレンジできるならばインターンだけでも行ってみたいと思っていたが留学が終わるまでに東大から就職して実際に働いている先輩とコンタクトをとることができず訪問を断念したということもあったので、帰国してからまたチャレンジしてみたいと思っていた。
また、PhDとしてミュンヘン工科大にまた来ればいいともアドバイスをもらっていた。
また、研究でもB教授やLさんに自分が考えていることが認められているように感じられ非常に嬉しく充実していた、ということもあったり、性質的にも海外の方が自分はあうのではないかとも前から思っていたのもあるので、また海外に出てみたいと思っていた。
また、研究しながら設計も行う教授職を仕事にできたらいいなと学部の頃から考えてもいた。
海外で意匠のスキルを育て、日本でASの研究を進めることができれば自分が思っていたようなことができるのではないかと考えていた。
また、留学して改めて日本と海外のそれぞれの文化の違いや長所短所を観ることができ、何か国や世界のために小さいことでもできる仕事をしたいという想いもあったので、研究内容を生かしてそれをできないか考えていた。

自分としては卒業時期をのばし可能性をよく吟味してチャレンジできるものはチャレンジしたいと思っていた。
また、自分はこれまで少しずつ積み重ねていって成り立ってきたので、そう簡単に登って行く事もないだろうし、チャレンジできるものはチャレンジして、焦らず経験を積んでいければと昔から考えていた。



研究室花見
AとTA君がみなの前で留学から帰ってきたことを報告した。その後にSMの前に二人が通された。G先輩がFNについてSMに話を振ったが(留学中の思い出話)、SMはこれを遮りTAの就職相談を始めた。Aは留学中に研究や設計課題などの話や、思い出話をしてSMに報告して、留学のお世話になったことへの感謝を伝えたいと思っていたのに、避けられているような違和感を感じた。これ以降、SMに避けられていると感じられる言動がしばしば見られるようになっていき、距離が少しずつ遠く感じられるようになった。


AはドイツでLさんと行っていた研究テーマを日本でASとともに続行させるためにASが過去に行った研究実績の資料(大学が発行しているもの)を借りて調べていた。


帰国してまもなくSMの名刺を整理するアルバイトをした。他にもAは少しでもSMとの距離を縮められるようにと、また早く日本、研究室の生活に留学が終わってもう一度慣れようとしていた。


いつ頃か、SMの授業に出ていて、SMが自分の子供も優秀なため東大に入ったと言っていた。ドイツでも子供の教育に力を入れているということを聞いたので、家庭にも力を注いでいる立派な人なんだなと思った。


この頃に別の研究室の同期のK君に
「まだASの研究をやっているの?」
となんだか妙な感じに聞かれた。その時はなぜそう聞くのか分からなかったが、少なくとも彼はASが怪しいということを知っていたのかもしれない。



研究室の先生たち学生たちで昼食を食べに行く途中で、同じ部屋を使っている研究室の准教授であるKF先生が、Aの前の大学での指導教員だった、しかもSMにとっては先輩であるSF先生の還暦祝いの会での話をSMに聞かせた。SMはAの目前で
「子供はいつになっても子供ですね。」
というような発言をした。AがSF研究室出身であることを知りながら平気で言った。
自分は都立大学の時にSF研究室に入れてよかったと思っていたし、SF先生のことも尊敬していたし、SF研究室が嫌で大学院を変えたわけでもないし、ASの研究に魅了を感じてSM研究室に入ったので、どう反応すればいいか板挟みになったような感じだった。

ドイツに留学

2008年5月上旬
Aは第六回AUSMIP派遣生としてドイツ・ミュンヘン工科大学へ留学することが決まった。
自分の研究テーマに沿った研究を行うにはミュンヘン工科大学が一番適切だと思い同大学を留学先として選んだ。

これ以降留学まで、AはASに従って研究活動をしていた。

Aの父の父方の家系は東大や旧帝大に行ったりする人が多いと聞いたが、うちの父は例外的にかどうか分からないが家庭の経済状況は学費を払えるほど余裕はなく、Aは高専時代から授業料免除や奨学金を借りたり、自分でアルバイトを高専1年生の頃からして学費や進学に必要な資金、生活費を貯めて出してきた。学部の頃も授業料免除をしていただいたり、民間企業や町の福祉協議会、日本学生支援機構から奨学金を借りる事でなんとか大学に通えていた。大学院に進学してからも日本学生支援機構の第一種と第二種を借り、民間の給付型の奨学財団、3財団から奨学金を投資していただくなど、税金や民間企業の奨学金にお世話になることで、また自分でアルバイトをすることで、なんとか学業を続ける事ができた。また念願の留学もすることができた。
高専時代からそういうこともあり、いつかは社会に還元できるよう、少しでも世の中のためになる研究や仕事をしたいと常々思っていた。また、それが当然のことだと信じていた。
高専時代から建築家の設計事務所で仕事を手伝わせてもらうなど経験を積む事にも積極的だった。
ASの研究はこれからの社会に必ず必要とされるものだと期待したし、自分でもその研究活動を通して社会に還元できればと強く思っていた。
そういうこともあり、ASの経歴や業績が詐称である部分が大きかったということを知った時は相当のショックだった。


2008年9月からドイツ・ミュンヘンで留学生活が始まった。
9月は主に語学や文化、交流などの講座に参加していた。
10月から翌年2月、3月まではスタジオ設計課題「eco unicity」、T教授(内田研究室に昔留学していたミュンヘン工科大学の教授)とL氏(T教授の研究室でASの研究に興味をもってドイツで研究を進めていた)のもとでの授業を受け研究活動などを主にしていた。


2008年秋
AはSMが目の病気にかかり入院したと聞く。Aは心からSMの健康状態を心配していた。
後で分かったことだが、SMはその病気が発端でうつ病にかかり、高校時代か大学時代の友人が勤める聖路加病院の精神科に通っていたそうだ。しかし、どの程度のうつかは疑問である。抗うつ剤や睡眠薬を処方してもらっているらしいが、本当にうつで危険な状態だったら、他の先生に学生の研究指導を応援してもらうなどの措置は取るべきだと思う。しかし、そのようなことはせず、回復後、前と同じように仕事をしていた。少なくともAが実際に見ていた2009年4月からはそうであった。


2009年3月30日
日本へ帰国

留学中は設計の授業、B教授とLさんによる授業と研究活動、語学の授業などで普段はそれ以外にすることはほとんどできなかったが、長期の休みがとれる時には建築を観に欧州をまわっていた。

ドイツに留学

2008年5月上旬
Aは第六回AUSMIP派遣生としてドイツ・ミュンヘン工科大学へ留学することが決まった。
自分の研究テーマに沿った研究を行うにはミュンヘン工科大学が一番適切だと思い同大学を留学先として選んだ。

これ以降留学まで、AはASに従って研究活動をしていた。

Aの父の父方の家系は東大や旧帝大に行ったりする人が多いと聞いたが、うちの父は例外的にかどうか分からないが家庭の経済状況は学費を払えるほど余裕はなく、Aは高専時代から授業料免除や奨学金を借りたり、自分でアルバイトを高専1年生の頃からして学費や進学に必要な資金、生活費を貯めて出してきた。学部の頃も授業料免除をしていただいたり、民間企業や町の福祉協議会、日本学生支援機構から奨学金を借りる事でなんとか大学に通えていた。大学院に進学してからも日本学生支援機構の第一種と第二種を借り、民間の給付型の奨学財団、3財団から奨学金を投資していただくなど、税金や民間企業の奨学金にお世話になることで、また自分でアルバイトをすることで、なんとか学業を続ける事ができた。また念願の留学もすることができた。
高専時代からそういうこともあり、いつかは社会に還元できるよう、少しでも世の中のためになる研究や仕事をしたいと常々思っていた。また、それが当然のことだと信じていた。
高専時代から建築家の設計事務所で仕事を手伝わせてもらうなど経験を積む事にも積極的だった。
ASの研究はこれからの社会に必ず必要とされるものだと期待したし、自分でもその研究活動を通して社会に還元できればと強く思っていた。
そういうこともあり、ASの経歴や業績が詐称である部分が大きかったということを知った時は相当のショックだった。


2008年9月からドイツ・ミュンヘンで留学生活が始まった。
9月は主に語学や文化、交流などの講座に参加していた。
10月から翌年2月、3月まではスタジオ設計課題「eco unicity」、T教授(内田研究室に昔留学していたミュンヘン工科大学の教授)とL氏(T教授の研究室でASの研究に興味をもってドイツで研究を進めていた)のもとでの授業を受け研究活動などを主にしていた。


2008年秋
AはSMが目の病気にかかり入院したと聞く。Aは心からSMの健康状態を心配していた。
後で分かったことだが、SMはその病気が発端でうつ病にかかり、高校時代か大学時代の友人が勤める聖路加病院の精神科に通っていたそうだ。しかし、どの程度のうつかは疑問である。抗うつ剤や睡眠薬を処方してもらっているらしいが、本当にうつで危険な状態だったら、他の先生に学生の研究指導を応援してもらうなどの措置は取るべきだと思う。しかし、そのようなことはせず、回復後、前と同じように仕事をしていた。少なくともAが実際に見ていた2009年4月からはそうであった。


2009年3月30日
日本へ帰国

留学中は設計の授業、B教授とLさんによる授業と研究活動、語学の授業などで普段はそれ以外にすることはほとんどできなかったが、長期の休みがとれる時には建築を観に欧州をまわっていた。

大学院に入学

2008年2月から3月
SM研究室のMさんから宇宙建築についての本を共同で出さないかと持ち込まれ、いくつかスピンオフについて調べてまとめた。SMはその監修という立場で2ページほど書いているだけだったが監督していた。

2008年3月
奨学金を借りるためにSMに指導教員としての推薦文を書いてもらう必要があり、連絡すると、推薦文の下書きを自分で書いて来るようにと言われた。東京大学では普通のことかもしれないが、自己推薦文になってしまうのではないかと疑問に思った。その後に何回も奨学金申請を出すために同じように指導教員の推薦文を自分が書いてそれをSMがほぼ写し書きしていた。これでいいのかどうか分からない。大学ではこれが通例なのか。


2008年4月
大学院入学
AUSMIP(建築学専攻独自で進めている留学プロジェクト)についての案内を掲示板で観て、前々から留学してみたいと思っていたのと、海外で研究ができるという願ってもない希望が膨らみ申請した。

新しい環境に入ったが、これからの希望とこの研究室に入れたという歓びで日々充実していた。
SMは研究室会議でも適切なアドバイスをしたり、幅広い研究分野を一人で指導したり、人脈の幅も広く、多くの人に信頼されていて、物事を総合的な広い視野で冷静に考える事ができる人だと感じていた。
まだ誰も研究していない新しい分野を切り開き、幅広い挑戦を続けて、それによって社会に貢献しているという印象をもった。
また、N教授からは次期建築学専攻長になる器の人物と言われているという噂を聞いたりと、やはり優秀な人なんだなと思い、ますます尊敬の念が高くなり、研究室の一員になれたことに喜びを感じていた。
2009年に精神的な病になってからも、事件が明るみになるまではSMやASに対する信頼、尊敬の気持ちは変わっていなかったので、混乱や不正があったということは相当にAにとってはショックだった。SM、AS、大学に対する信頼も、今まで信じてきた道も希望も、自分に対する自信も一気に大きく崩れてしまった。大切な人を失うよりも、震災で家を失い原発の被害にあうよりも、比べられないくらい大きなショックと混乱だった。だからこんなにも重症な病になってしまったのだと思われる。

研究室の指導に対する疑問

2007年8月28日から31日
東京大学大学院工学系研究科建築学専攻入学試験

2007年9月13日
同合格発表
Aは第一志望のSM研究室に合格した。
その後も研究に対する意欲は衰えず、2008年2月提出の卒業設計のテーマもギリギリまでASの研究テーマに沿ったものだった。
また、都立大での卒業研究では集合住宅住戸の水廻りの配置について研究し、大学院での研究につなげようとしていた。


東京大学建築学専攻では普通、一つの研究室に入れる修士課程学生は三人までだが、例外で人気のある意匠系の研究室で四人のときはあったそうだ。しかし、この年にSM研究室がとった修士課程学生は五人である。噂ではみな成績が優秀でSM研志望学生が多かったため、例外で五人入れたようだ。大学院入学後、他の学生から聞いた。


研究室会議は週に一度、全体会議があり、春から修士課程学生、博士課程学生、夏から学部生が発表する。年間一人二回から三回ほどで、その他に研究テーマによって三つのグループに分かれるが、その会議は月に一回か二回あるかないか。すなわち、年間、指導を仰げるのは一人当たり14回から15回(長期休暇や教授の都合などで減る場合もあるのでこれより少ない人もいるだろう)。後はアポイントをとって個人的に指導を仰ぐことになる。
Aは高専時代から教授のもとで研究活動をしていたが、高専時代では週に一度、二年間、研究室会議を行い指導を受けていた。学部時代(学部は東京都立大学建築学科F研究室)にも週に一度、研究室会議があった。
それと比べると、指導の密度は明らかに低いと感じた。年間、14回から15回の会議でいい論文はできるだろうかという疑問も大学院に入った後に徐々に出てきた。同じ東大の同じ分野の研究室でも週に一回程度の会議があると聞いたことがある。
SMは自分のほかの仕事で忙しいように観え、あまり面倒をかけては迷惑になるのかなと思うようにもなった。

実際、学部時代、都立大の先生にSM研究室の学部の卒業研究論文の梗概を見せたらこれが論文として認められるのかと言っていた。その時はそれほど自分では問題視していなかったが、後々その原因が分かったような気がした。